教育方針
「伝統」と「ニーズ」の調和
今に生きる伝統教育
カトリック教育を基盤にしたモンテッソーリ教育が本園の特色です。
神からいただいた子どもが本来持っている力を伸ばすため、一人ひとりに合わせ、自分でやりたいものを選んで取り組む主体的な学びを大切にしています
3・4・5歳が同じクラスで過ごす縦割りのクラス編成は、兄弟姉妹の少ない現代にこそ、子どもたちの社会性や思いやりの心を育むのに適した環境です。
園の新しい動き
時代のニーズの中で、暁の星の教育を多くの人に体験してもらえるように、こども園への移行を目指しています。
〇福山暁の星幼稚園として大切にしてきた教育内容は基本的に維持していきます。
〇子育て支援策は、現在の人員や体制でできるものから、先行して実施していきます。
〇園と保護者、保護者同士の関わりや連携も大切にしていきます。
幼稚園ブログに連載中の「小学校現場から来た園長の日記」の中から
「異年齢の学級編成」
自分が通った幼稚園はもちろん、我が子が通った幼稚園も、年長・年中・年少と同じ年齢の子たちでクラス編成がされていました。では、本園では、なぜ異年齢の縦割保育をしているのでしょうか。
本園では、幼稚園生活の先輩である年長さんはAさん、年中さんはBさん、そして、入園したばかりの年少さんはCさんと呼ばれています。園バスが到着してからの様子を見ていると、Aさんの中には、自分が降りた後にCさんがバスから降りてくるのをじっと待っていて、降りたのを見届けると手をつないで教室まで連れて行っている姿がありました。Aさんたちにとっては、自分たちがこれまでしてもらったように下の子たちのお世話をすることは、自然でやりがいのあることのようです。
昔と違い、少子化で兄弟が少なくなり、年下の面倒をみたり、思いやりの気持ちをもって接したりする経験はとても貴重なように思います。考えてみれば、もともと社会は異年齢の集団で構成されていて、同年齢集団で過ごす学校が特殊だということになります。
もちろん、発達段階に応じた同年齢での活動も必要なので、1日の保育時間の中では、横割活動も確保しています。縦割と横割のどちらも必要なようです。
「やりたいことを見つける価値」
入園面接をしていると、本園を選択された理由として、「やりたいことを自分で見つけていく方針に共感した」というお話を一番たくさんうかがいます。モンテッソーリ教育を特色としている本園では、確かに子どもたちが自分のやりたいことを自由にできる時間が十分にあります。使ってみたいと思わせる面白そうな教具の中から、子どもが自分で自由に選んで、トレーニングを受けた教師による適切な援助で、自己形成をしていくことができます。
一方で、年齢に応じて、同じ活動を体験させるよさもありますので、体操、絵画、音楽、英語などは、一斉に学ぶ時間も取り入れています。
自由に選んで「おしごと」をしている時は、不思議なほどみんな静かで集中しています。見学された方は、「うちの子は、こんなに落ち着いていませんが、大丈夫ですか。」と言われますが、やりたいことに取り組んでいる時は、自然に静かになるもののようです。もちろん、外遊びの時には、みんな元気いっぱい走り回っています。
自分が心からやってみたいと思う内発的動機付けの力に大いに期待をしています。それは、私たち大人が仕事をする時でも同じでしょう。人間は、やらされるのではなく、自分からやってみたいと思ったときに、力を発揮するものだからです。決められたレールの上を能率よく走る時代から、新しいことを切り開くことを求められる時代に変わり、やりたいことを自分で見つけられる力は一層重要になっています。
一方で、年齢に応じて、同じ活動を体験させるよさもありますので、体操、絵画、音楽、英語などは、一斉に学ぶ時間も取り入れています。
自由に選んで「おしごと」をしている時は、不思議なほどみんな静かで集中しています。見学された方は、「うちの子は、こんなに落ち着いていませんが、大丈夫ですか。」と言われますが、やりたいことに取り組んでいる時は、自然に静かになるもののようです。もちろん、外遊びの時には、みんな元気いっぱい走り回っています。
自分が心からやってみたいと思う内発的動機付けの力に大いに期待をしています。それは、私たち大人が仕事をする時でも同じでしょう。人間は、やらされるのではなく、自分からやってみたいと思ったときに、力を発揮するものだからです。決められたレールの上を能率よく走る時代から、新しいことを切り開くことを求められる時代に変わり、やりたいことを自分で見つけられる力は一層重要になっています。
「人を動かす言葉かけ」
幼児期の子どもたちの成長はめざましく、1年でこんなにもできるようになることが増えてくるのだとあらためて感じます。
国が定めた「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」というものがあって、幼稚園にも、保育所にも共通して存在しています。これは、到達目標ではなく、小学校との接続がスムースに行われることを目指したものです。
学校的な発想だとついつい「~ができるようになることを目指す。」というように思いがちです。でも、ここに注目しすぎると「引っ張る」ような保育になり、子どもたちの主体性や自主性を大切にする「待つ」保育には、なかなかたどり着けないことになります。
遊びを中心とした自発的な活動の中から育ってほしい姿に導いていくというのはなかなか難しいことです。外遊びの終わりを知らせる鐘が鳴っても、なかなか入ろうとしない時の言葉かけは、試行錯誤です。これまで、ほめて動かすことを中心にしていたようで、実は叱咤、激励の言葉かけで結構引っ張っていたかもしれません。
「じゃ、ヨーイドンで競争しよう」と誘いをかけたり、「お部屋に戻って、〇〇を見せて」と促したりしている先生たちの言葉かけと子どもたちの反応を日々観察し続けています。
分かってきたことは、どの子にも通じるような魔法の言葉はないということです。個に応じながら、目指す方向に導いていくことの難しさとおもしろさは、教育の現場では共通していると感じます。
「時のしるしに気づけるように」
先日、「モンテッソーリ教師の12の心得」を職員みんなで読み直したところです。あらためて、大切にすべき内容を再確認するとともに、何を新たにしていかなければならないか日々考えています。
年度初めの学院全体の会で理事長から紹介された創立30周年記念誌には、学院を創られたシスター方の思いが書かれていて、あらためて進むべき道しるべになりました。日本について全く知らない中で、国際的に視野と心を持った人間を育てたいという一心で、数々の苦労を乗り越えてこられた姿が書かれています。創立当初のシスター方の「冒険心」に感動します。
最も心に残ったのは、時のしるしを見る敏感な心を持つことを重視されていたことです。自分の抱いているイメージに固執しすぎず、よりよく現代に生きるものでなくてはならないと書かれていました。
私たちの社会や生活を通して、神が示そうとされている時のしるしを感じ、何をすべきかに気づく日々を送りたいものです。
「一人でできるように手伝って!」
園庭でいつものように子どもたちと遊んでいたところ、後ろの方で大きな泣き声が聞こえてきました。どうやら遊具の上から降りることが出来なくなったようです。助けに行こうと見ると、遊具の下には先生がいました。そして、「だいじょうぶ。おりておいで。」とやさしく声をかけていました。
その子は「こわい。できない。」と叫んでいましたが、先生が「後ろ向きにおりておいで。」「足をくさりにのせてごらん。」と降りるための手順を少しずつ説明していきました。
「だめ、こわい。」と言いながらも、先生に言われたとおり、少しずつ足をおろしていきました。そして、一歩ずつ一歩ずつ後ずさりするような動作で、遊具の上から無事地面に戻ってきました。到着した時のうれしそうな笑顔。先生にも、たくさんほめてもらっていました。
そばで見ていた私は、ただ「よかったね。」と思っていたのですが、何と先生は「もう一回行ってみる?」と声をかけました。そして、その子は、やっと降りてきたはずの遊具の上に、もう一度チャレンジしていきました。
できないと泣いている姿を見ると、かわいそうになってついすぐに手をかしてしまいそうになります。でも、ちょっと待ちながら、そっとサポートしながら、自分の判断で行動させていくような関わり方が求められると思いました。
「祈りの意味」
学院の中で最も歴史のある中高の塔から聞こえてくる「アンジェラスの鐘」。鐘の音が聞こえている間、学院全体が祈りのひと時になります。幼稚園では、子どもたちが食事を終えてほっと一息という頃に聞こえてきます。
祈りは、「かみさまとお話をすること」とよく言います。でも、聖人たちのように直接神と対話できない私たちにとっては、祈りは一方通行に思えるかもしれません。
祈りとは、神の思いを感じるために、1日の中に少し立ち止まる時間を持つことで、いつもほとんど外に向かっている心を内面に向ける時であると考えたらどうでしょうか。
そして、祈ると言えば、自分に都合のいいことをお願いしがちですが、わたしたちの望むことがすべてためになるとは限らないので、「わたしに必要なものをください」という信頼を持って祈りたいものです。
自分の願いを果たす道具として神を使おうとするのではなく、身の回りに起きている出来事の中で神が自分をどう使おうとしているか、心を澄ませて聴けるようでありたいと思います。
「クリスマスの心」
今年も、クリスマスを意識する時期になりました。カトリック学校にとって、クリスマスは特に大切な喜びの日であり、様々な取り組みが実践されています。本園でも、クリスマスの意味を学ぶ活動や周りの人たちに優しい気持ちを届ける活動をがんばっているところです。
クリスマス献金は、いろいろな取り組み方があると思います。
「がまんの献金」がなかなか貯められない私は、家にびんを用意して「小銭回収募金」をしています。キャッシュレス時代とはいえ、まだ現金対応の店があるので、支払いを済ませた後、小銭が財布に戻ってくることがあります。そのおつりの小銭をびんに入れることにしています。皆さんも、いかがですか。財布がスリムになって一石二鳥です。
喜ばれること、望ましいことを積極的にやってみる期間にするのも、クリスマスにはふさわしいです。いつもなら通勤電車から真っ先に降りようとしているのに、少し譲る気持ちになれるのがこの季節です。
私たち大人も、心を豊かにする期間として、クリスマスを迎える時期を大切にしたいです。
「運動会の練習、好きでしたか」
運動会に向けて、毎日練習をしています。みんなとてもがんばっていて、帰りの園バスの中では、ほとんどの子が爆睡していると聞きます。
日本の学校に通っていれば、みんなどこかで運動会の思い出があると思います。私は、自分が小学生の時の思い出と小学校の先生として関わった時の両方の思い出があります。
小学生時代は、運動会の練習が始まると「授業がなくなる」のがうれしかったです。走るのは、けっこう速かったので、かけっこやリレーの練習を楽しみにしていました。ただ、2年生ごろまでは、かけっこが競争だということが分かっていなかった記憶があります。横に並んだ友だちといっしょに楽しく走るものだと思っていて、抜かすということなど考えてもいませんでした。兄弟や友達の話を聞いて、「速い方がいいらしい。追い抜いてもいいんだ。」ということを知ったわけです。競争を知らない幸せな時代でした。
先生になってからは、教え子に「先生・・。足がおそい人にとって、運動会がいかに苦痛か分からないでしょ。」と言われたことが印象に残っています。抜かされていく姿をみんなの前で見られるのが運動会であれば、確かにいやでしょうね。もちろん、運動会にはリレーだけでなく、ダンスなど様々な種目があるのですが、私の息子は、ダンスの練習が苦痛で、娘はダンスが大好きでした。
まずは、運動が好きな人も、そうでない人も、みんな神様からいただいた力を発揮し楽しめる場になるようにしていきたいですね。
「園庭改造計画」
毎日、園庭をながめて考えています。園バスを待っている間や外遊びの時などを利用して、園庭を歩き回って、よりすてきな環境にしていくために何ができるか構想を巡らしています。
本園の園庭は、広さもしっかりあり、木々にも恵まれています。それらを活かし、子どもたちの喜ぶ生き物にあふれた環境を目指しています。他の園の様子を調べたり、先生たちに意見を聞いたりしています。
「池はどう?魚やカメ、かえるがいたら喜ぶと思うよ。ビオトープって知ってる!」
「でも、転落の危険があるでしょう。」
園庭は、楽しいだけでなく、安全でなければならないし、運動会ができるスペースは必要だし、時には駐車場としても活用できなければなりません。雨が降ると通り道がなくなるのも検討課題の一つです。
今回、園庭の周辺にある金属製のグレーチング(排水溝の格子状のふた)に専用の茶色のゴムシートをかぶせることにしました。以前に、ここでころんでけがをした例があったようです。ゴムシートは柔らかく安全である上に、小さな穴から水は抜けていっても、土や木の葉などはシートの上に残ります。遊具のある周辺は、大きな木の陰になり、地面には季節ごとに様々な葉っぱが落ちてきて、虫の住処になりそうです。ここを、まず改善の足掛かりにしようと思います。
「専業主婦だってサポートが必要」
先日、子育てに関する負担感を調べたグラフを見る機会がありました。その調査では、予想通り多くの母親が多かれ少なかれ負担感を感じていることが示されていました。特に印象に残ったのは、専業主婦のほうが負担感を大きく感じているということです。
仕事を持つ家庭は保育所を利用できますし、3歳以上の子どもがいる専業主婦は、幼稚園で子育ての情報を得たり、子どもと離れる時間を確保したりできます。それによって、負担感が軽減されているとしたら、保育園にも幼稚園にも所属できず、家族の支援が期待できない専業主婦の方たちが、負担感を感じられているのはよく分かります。
昔は、子供たちの数も多かったので、地域社会が子育てに関わっていて地域でまとめて面倒をみている感じもあり、大家族の中に相談できる人もいたと思います。今は核家族化し、生活が便利になったために、一人で子どもと向き合う時間が長くなっています。
本園には、保護者が就労しているかは問われない、2歳と満3歳の子たちのためのクラスもあります。このクラスには、幼稚園に入る前に少しずつ集団生活に慣れていくための準備という役割がありますが、保護者の皆さんからは、子育てについて不安に感じていたり、悩んでいたりしたことについて、いっしょに関わってもらえてありがたかったという声をたくさん伺いました。お子さんのためだけでなく、保護者をサポートする役割が求められていることが分かります。
「聞くことの大切さ」
園では、子どもたちが毎日よく話しかけてくれます。がんばって聞いていますが、正直なところ、半分くらいはよく分からないことが多いです。きっと、前提になっている子どもたちの世界の知識が不足しているのと担任の先生たちと比べるといっしょにいる時間がやっぱり短いからだと思います。
そんな私にも、いっしょうけんめい話しかけてくれるので、よく分からなかった時も、「そう!」としっかりうなづくようにはしています。「ごめん。本当はよく分からなった・・。」と不安になりながら顔を見ると、うれしそうにしてくれているので、よかったなあと思います。話した内容についてのコメントやアドバイスがほしいのではなく、聞いてほしいのだと分かります。外遊びの時は、うんていや鉄棒ができた時に「園長先生、見て!」と複数の子たちから「みてみてこうげき」を受けることが多いです。
自分の経験に基づいた一方的なアドバイスよりも、相手の話をまず聞くことの方が大切な場合があるようです。
「乗り越える時」
朝の登園時、泣き叫んで「おかあさんがいい!」と言っている子を無理やり抱きかかえて教室まで連れていく姿にはなかなか慣れません。幼稚園の先生や保護者の皆さんにとっては年中行事ですが、知らない人が見るとまるで誘拐犯が拉致しているみたいに見えるかもしれません。
新学期の初めや連休明けなどの節目に多くなる傾向がありますが、そういう気持ちになるタイミングや期間はその子によっても違うようです。外遊びの時に、うつむいて涙ぐんでいるので、かがんで聞くと「おかあさんがいい・・」とつぶらな瞳でつぶやかれたこともあります。
泣き叫ぶまでにはいかないまでも、門のところでおうちの方と離れがたくなっている姿はよく見かけます。保護者の方も、慣れたもので先生に託してさっと姿を隠していかれます。
気になるので、その後、そっと教室に様子を見に行くと、たいていは、みんなといっしょに楽しそうに遊んでいる姿があります。個人差はあるでしょうが、ここは乗り越えさせていくべき時なんだなと思います。
それにしても、そこまで「お母さんがいい!」と言ってもらえるなんて、うらやましいですね。今のうちかもしれませんよ。