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校長先生のお話

瞑想に生きる
2015-02-07
 先日校長室の私のところに届く雑誌の中に、見慣れた雑誌がありました。それを開いて、いつも読んでいる巻頭言を読みました。
 
  それはアメリカのベネディクト会(観想修道会と呼ばれる、規律が厳しく、ほとんど沈黙の共同生活を送っている)に所属するベネディクト・バウワー神父が書いたものを、翻訳しているものでした。
 
  「私たちの喪失感の問題を理解する道を進む最初の一歩は、立ち止まることだ。中途半端に動きながら止まるのではなく、完全に身動き一つせずに立ち止まるのだ。そして、それから自分が生きてきた一連の時間を、分刻み、秒刻みまで見つめ見極めるのだ。そして最後に、自分の内で自分の名前を言う声に耳を傾けることだ。
  神は外にはいない。文字通り「存在」の中、つまり私たちの内におられる。すべての答えは内にある」
 
  自分自身を見つめることの難しさは、社会生活を行うものにとって当然のことかもしれません。心の声が聞こえないように、心を外に外に向けている私たちの現実があります。テレビ・ラジオ・人間という自分の心の外側に目を向ける習慣が私たちにはあります。心を静め、自然の音以外には何もないところに行くと私たちの心は不安になります。
 
  かつて、2週間の間、山登りのために2000メーターの高さの山小屋を起点として、4つの山に登ったことがありました。電気もなくもちろんテレビも携帯電話もスマホもありませんでした。あるのは自然界の音と満天の星空だけでした。
 
  本を読もうにもランプの灯りだけです。疲れていますから帰ってきてから二日くらいは、ゆっくりと休みます。一週間もすると、疲れも溜まって休めることが嬉しくなる日々でした。同時にテレビもラジオもない日々が続いていたとき、心の中で自分と対話している自分に気が付きました。山々をみてもその美しさが半端ではなく、その山とも親しく対話している自分がありました。野にさく高山植物の可憐な花を見ても、その花が語りかける何かを聞いていたようです。
 
  ベンディクト・バウワーは続けます。「部屋の鏡を覗き、鏡から見つめ直す人物が誰かが分からなくなったときが立ち止まる時だ。
映っている姿は私なのに、その人物は私ではないと思った時、立ち止まるべきだ。別の言い方をすれば、私たちが立ち止まり目を向け耳を傾けなければならないのは、何もかも訳が分からなくなったそんな時だ。
立ち止まるのは、自分が何者なのか、何をするのかに対して評価を与えるためではない。立ち止まった地点は、私たちの人生を作り直す旅に出るための出発点になる。
私たちは時には立ち止まり、自分自身を思い出す必要がある。言い換えれば、過去を見つめ、自分を強くさせたり弱くさせた出来事、日付、人物などを見ることだ。」
 
  禅宗には「内観」という自分の心を見つめるという方法があります。禅宗だけではなく、キリスト教の世界にも「瞑想」という方法があります。自分を見つめ、あるがままの自分に出会う心の旅でもあります。やはりその時にはテレビもラジオも一切のメディアから自らを切り離して1週間とか10日間を一人で過ごします。自分と対話しやすいように、町から離れた自然豊かな場所で自分と向き合うのです。
 
  その時、自分がいかにたくさんの騒音に包まれていたのかが痛いほどわかります。同時にそういう騒音の中に長くいすぎて、またそういう騒音のもとに戻りたくなるのを感じます。去年の夏の高島のように、一昨年のミクロネシア連邦のポナペ島のように、自然の中で過ごす時によく分かります。
 
  いつも仕事に追われながら、自分を見失っていた時をふりかえりながら、自分は今どのような立ち位置にいるのだろうかと、振り返ります。振り返る時いつも神様がよこしてくれた伝言にも気が付くのです。生活の中で関わった人の言葉です。自分がこのような生き方、考え方で良いのかと迷っている時に必ず寄越してくださる伝言です。そうやって自分と向き合っている時になってはじめてその伝言の意味に気が付くのです。
 
  いつも騒音に身を置きなれていると、それが普通になってしまってそれなしには何もできなくなったりします。一年に何度か上京しますが去年の4月に東京に上京した時、山手線の中にいた乗客すべてがスマホに向かって何かをしていたことが新鮮な驚きでした。そして何も持たず周りを見回しているのがわたしひとりだったということがさらに驚きでした。
 
校長 山口道晴
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