校長先生のお話

艱難は、人の心を玉にする
2015-01-15
  明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
 
 宮城谷昌光(みやぎたにまさみつ)と言う人がいます。この人の本を読むようになったきっかけは、新聞の書評にその名が出てからでした。漢文や古典の中で扱われていた中国の歴史の中の人々が、翻訳ではなく小説として描かれていることに興味を覚えたようです。今振り返ると、文庫本ではなく単行本で読んでいたことでも、それほど面白かったのだろうと自分でも驚いています。
 
  広島の廿日市教会の主任司祭として初めて小教区の教会を持たされてみて、どのように運営し、一つにまとめるためにはどうしたら良いかが見えませんでした。それまでは組織の中でぬくぬくと育ち、運営や経営の立場に置かれることもなく生きてきたからでしょう。教会運営の難しさを、信徒会長と共に苦労を分かち合いながら、会計の方の助けを借りて何とか前に進んだようにも思います。そういう時に読んでいた本でしたが、目先の困難さに気を取られていたようにも思います。それで筋書き・内容の面白さだけに夢中になっていたようです。
 
  尾道に転任してからも清心幼稚園の園長、尾道教会の主任司祭、岩国看護学校の非常勤講師、福山暁の星女子高校の宗教の非常勤講師等の仕事をしながら、合間に宮城谷昌光さんの本を、読んでいました。岩国への電車の座席で、夜寝る前にです。しばらくすると、行間から一つの声が聞こえてくるような気持ちになりました。彼が描く中国の王たちの姿の中に「艱難が人の心を玉にしてくれる」という共通した考えがあることに気が付きだしたのです。
 
  古代中国の偉人にスポットをあてながら、苦労を重ね、辛酸をなめ尽くして王として民を治めた物語や、数奇な運命の中で苦しみながらも誠実に生きた人のサクセスストーリーを実に読み応えのある小説として読みながら、自分はどのような生き方をしているのだろうかと言う自省をも生まれさせるのです。
 
  孟嘗君という本の中にこういう言葉があります。「人を助ければ自分が助かる。私は、あなたを助けたおかげでこういう生き方ができた。礼を言わねばならない」それに対して相手は、「いいえ、助けてもらったことを私が感謝しなければならないのです」と答えた時「いや、そうではない。助けてくれた人に礼を言うより助けてあげた人に礼を言うべきだ」という文章の中に、パウロの言葉にあるように「いつも感謝しなさい。いつも喜びなさい。」という言葉の意味にも広がってくるのです。
 
  また思い上がりが人間にとってどんなに大きな毒かとも教えているようです。
同じ「孟嘗君」という本の中にこんな言葉があります。「上に立つ者は、謙遜を続けねばなりません。それを忘れたら上から下へと降りると言うことです。威張ったり、人を人とも思わずに一生を送るものは、庶民ばかりだと思ってください。だからこそ庶民は庶民でしかないのです」。なんと含蓄のある言葉でしょうか。
 
  人は苦労して、何かを手に入れるのでしょう。しかし、苦労をしたからと言ってすべてうまく行く訳ではないのです。すべて生きながら学びながら、世の脚光を浴びることなく世に埋もれている人たちがいるのです。世の脚光を浴びて生きた多くの中国の偉人たちを小説として描きながらも、人としてどのような人であったのか、どのような生き方をしてきたのか、誠実に真摯に、謙虚に生きた人たちの物語であり、苦労して生きながらそれに埋もれず、いつも学び続けた人たちの物語であったのかもしれません。
 
「人に教えると言うことは、自分にとって曖昧であったことが明らかになり、自ら学ぶことになるのです」という言葉もありました。とすれば私たち人間がどう生きるか、老いても学び続けることの大切さを改めて気付かせてくれることではないのかと考えさせられるのです。
 
  現代のコミュニュケーション不足の時代に、生き方を考えさせ、苦労や失敗を繰り返しながら、人間が人間らしく生きる生き方と、他人との関係についても一考させるものであると思います。
 
  苦労や苦しみが人間にとって、ただストレスになるというのではなく、我儘自儘の自分に気が付き、自分自身の幼さや愚かさに気が付いて成長することなのだと教えてくれる本であったように思います。苦しみから逃げるのではなく、苦しみに向き合って歩む一年となりますようにと願う年の初めです。
 
校長 山口道晴