校長先生のお話

パウロの生き方について 2
2011-08-09
  前回のパウロについては、その人となりについて簡単に彼の人生を探ってみた。熱心なユダヤ教徒であり、それもローマ市民権を持ちギリシア語を話すユダヤ人であった。当時としては最高級の学問を修め、熱狂的な人であったことが窺える。
 ところがユダヤ教の熱い心が、ある瞬間にキリスト教に変化するという特別な体験をしている。ありえない出来事が彼の身に起こるのである。
彼自身の言葉によれば「あなた方は、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年頃の多くのものよりもユダヤ教に徹しようとしていました。
  しかし、私を母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子を私に示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」。(ガラティア書1章13節~16節参照)
  上の聖書の箇所は「人間とは何か」ということについて深く考えさせてもらえる箇所である。すなわち、「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉がある。「天は見ていないようで見ているし、いい加減なようで、人間の正確な評価もしている」という意味でもあろうか。
  つまり、人間は、自分の自由意思に従って勝手に生きているように考えているが、人生全体を眺めてみると、どうもそうとばかりは言えない。特に真面目に、誠実に、真摯に生きて来ても正しく評価されず人生の不合理さ、不条理さに嘆くとき、上の言葉は、どんなに心を楽にしてくれるだろうか。私たちには、自分の人生全体に対する神のみ旨は見えていないのである。しかし、神は、その人にとって一番良いあり方へ導かれるのである。
  キリスト者にとってパウロは、かつて恐ろしい迫害者であり、今もその記憶は消えていない。特にエルサレムに住むキリスト者たちにとって、パウロは「またいつ裏切るか分からない者」でもあった。
  ユダヤ教徒にとっても同じである。「裏切り者」のレッテルが貼られ憎しみの的であったと想像される。血気にはやる者たちにとってパウロをとらえることは当然のことであった。
  彼には、エルサレムを中心とする地でキリスト教を伝えることなど不可能に近かったのではないだろうか。そのような状況にパウロは置かれていた。しかし、パウロの心は確実に「キリスト」に捉えられていた。だから1ミリの揺らぎもなく情熱と熱意をもってキリストを知らない人たちすべてに「キリスト」を伝えようとしたのである。
  「私にとって有利であったこれらのこと(ユダヤ教徒であったこと)をキリストゆえに損失とみなすようになったのです。そればかりか私の主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえにすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。キリストを得、キリストのうちにいる者と認められるためです。」(フィリッピ書3章7節~9節)
パウロは、人間にとって測りがたい神の摂理(運命)の中に動き始めるのである。(続く)
 
校長 山口道晴