本文へ移動

校長先生のお話

マリアさまの月に寄せて
2016-05-02
5月が来るといつも、またマリアさまの月がやって来たという思いが浮かびます。マリアさまについて考える時、考える事が本当にたくさんあります。イタリアでマリオロジア(マリア学)の研究書を紹介している辞典がありますが、中世以後出された本について膨大な厚みをもって紹介されています。
 
  まず、本校がマリアさまに捧げられている学校だということがあります。学校の校訓に『マリアと共に、神に信頼、己に誠実、互いに睦み、進んで奉仕』という言葉があります。そのことによっていつもマリアさまの生き方を振り返ることが出来ます。マリアさまの御像を見て、学校を見学に来られたプロテスタントの方が非常に感動されたことを思い出します。
 
  さて、「神に信頼する」という生き方は、マリアさまがダビデ家の直系の子孫として、常に唯一の神に信頼し、唯一の神に祈り、唯一の神にすべてを委ねるということです。その生き方、生活習慣を母アンナと父ヨアキムは、幼いマリアさまに対して与えていたのでしょう。ルカ2章の1~7節にある「受胎告知」に従ってマリアさまは「fiat voluntas tua」(あなたの仰せのごとくになりますように)という人類史上において、はじめて神から直接の人間への働きかけを体験するのです。ですがそこには、断ることもできたという自由も存在しました。
  マリアさまにとって神からの働きかけを受けるということは、預言者サムエルが神の声を聞くという事柄とはかけ離れたもっと不思議で、恵みに満ちたことでした。なぜなら神の御子がこの地上に生まれるか生まれないかのキーワードが「fiat voluntas tua」という言葉だったからです。マリアさまが受け入れなければ、私たちの救い(復活)はもっと遅くなっていたと思われるからです。
 
  「己に誠実」という言葉が、神の存在なしに語られるとき自分の心のままに生きることだと思ってしまう人が何と多いことでしょう。いつもどこにいても三位一体の神の存在を忘れては、私たち人間としての存在理由もなくなるのです。いつも三位の神が常に私たちの心の真ん中にあり、そこからすべてが発出するのです。その上に立っての「己に誠実」ではないかと考えています。
  現代社会の価値観の中で、自分に嘘をつかず、神の掟に従って生きることが必要なのです。マリアさまの生き方の中には、常に神のみ旨に従って生きるという姿勢しか見られないのです。
 
  「互いに睦み」という言葉の中に、ただ単に仲間と仲良くしましょうということだと考えることも大切なことだと思います。本当に仲良く生きるとはどういうことなのかを考える大切なヒントです。気が合う人、リーダーシップが取れる人、話が面白い人の傍で生きることは誰しもしていることですが、話がなかなかできない人や、友達がなかなかできない人の友として寄り添っていくことも大切な「互いに睦みあう」生き方ではないかと思います。互いに睦みという言葉は、全ての違う友達を受け入れる、穏やかさと、温かさ、新しい人を受け入れる心の広さが求められているのです。
 
  「進んで奉仕」という言葉に、抵抗を感じる人が結構います。ですが「互いに睦み」という言葉に大きな力と影響を与える言葉でもあります。つまりマリアさまの生涯は、使徒たちの宣教をいつも祈りで支えていたことが「使徒たちの宣教」の中で書かれています。マリアさまはヨハネによる福音の2章であの有名な「カナの婚宴」でも常に目を配り、困っていることがあればどうすれば解決できるかといつも考えて行動されていたのです。
 
  マリアさまの生涯は、いつも困っている人たちや苦しんでいる人たちのことを考え、助けていたようです。また使徒たちの宣教を手伝って支えていたであろうと思われます。祈りで、そして具体的に手を貸しながらです。そういう思いやりを持って生きることが進んで奉仕するということではなかったでしょうか。
 
  マリアさまの偉大さは、もちろん最初に「仰せのようになりますように」という言葉をもって神のご計画を受け入れたことだけではないのです。その後の生涯を一信徒として、キリストの教えに従って生きたことなのです。それは聖書の中には一部しか書かれていません。ですが出来事が起こるたびに、そのことを深く心に留めて考えをめぐらし、全てを神に委ねるという謙虚さも持って生涯を生きてこられたのです。
 
  私たちは、女性であり、母であるマリアさまの光り輝いている部分だけに目が行きそうになります。十字架のもとで愛する息子が命を失う場面にもおられて、イエスさまがマリアさまに「これは、あなたの子です」とヨハネを指して言われ、ヨハネには「これは、あなたの母です」とマリアを指して言われたことをまだ記憶に残しておられる方もたくさんいらっしゃるであろうと思います。
 
 あるマリア研究者は、「マリアさまの偉大さは、神の母であることだけにあるのではない。生涯キリストの教えに従って弟子たちと共に生きたことである。」と言っています。十字架の場面での意味がほんの少し理解できるのではないかと思います。
 マリアさまの生き方を考える時に、自分はどのような生き方をして生きているのかを振り返る機会にできる、恵みに満ちた5月となりますように。

校長 山口道晴
TOPへ戻る