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校長先生のお話

年度の終わりに
2015-03-05
 無事に卒業式が終わりました。毎年この卒業証書授与式で、一人で感動している自分がいます。この1枚の卒業証書をもらうために、6年間を紆余曲折がありながら、ようやくたどり着いたのだと保護者も、本人もすごく感動しているだろうなと今年の卒業式の間中考えていました。
 
  先日、13歳の少年が殺され河川敷でそれが見つけられたことが、新聞・テレビで大々的に報じられました。昨日のニュースでは、主犯の18歳の少年は、「人気があって、友達のたくさんいるあの中学生が、羨ましかった」という供述をしていることを知りました。
 
  前向きに人生を考える時に、「なぜ自分には友達がいないのだろう?」「なぜ自分は、ちゃんとした人間関係が結べないのだろうか?」「あの中学生が持っていて、自分にない物は何だろうか?」「どうすればあの中学生が持っている何かを身につけることができるだろうか?」等々考えられなかったのだろうかと考えさせられました。そして現代はそういう人間関係が結べない子どもたちが増えて来ているのです。
 
  今年の卒業式の聖書の箇所にこういう御言葉がありました。「あなた方に幾らかでも、キリストによるはげまし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
   何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
  互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるのです。」(フィリッピの教会の信徒への手紙2章1節~5節)
 
  パウロが書いた手紙の中から選んだ箇所ですが、本当に自分を見つめ、自分が徳ある人間となるために、今日どのように人と関わって来たのかと言う自分の一日をふりかえる糾明(心の小さな過ちを反省する)が求められています。
 
  ただ一日が自分にとって楽しく、何の心配もせずに過ごせるならそれ以上に幸せなことはないのかもしれません。しかし、心の成長はそこで止まってしまいます。面白くおかしく過ごせない日々には、自分は不幸だと思ってしまう可能性もあります。しかし、苦しみは人間の心を育てますし成熟させます。そのためにも、自分に与えられた状況をよく吟味し、考えて、「どうすれば良いのだろうか」という疑問を持つときに新しい展開が始まるのでしょう。
 
  どうやら、徳の問題は、事件を起こした人間だけに言えることではなく、我々一人ひとりにも言えることではないかと思います。日々の生活の中で、人間関係の中で妬みや僻みや、憎しみの中で生きるよりどう改善して生きて行くかと言うことを考え始めるのが普通の人間ではないかと思います。
 
  ところが、きちんとした人間関係に生きていない人、神様との関係に気が付かない人は、「悪いのは自分ではない、周囲が悪い、あいつが悪い、皆もしているのにたまたま見つかってしまった自分は不幸だ。」と自己弁護にだけ走るようになっていくのではないでしょうか。それは残念ながら一部の人だけの問題ではなく、現代の社会が持っている一つの病巣のような気がしています。
 
  ふとマリアさまについて考えてしまいます。色んな出来事を通して彼女は「心に深くとどめていた」という言葉が聖書にたくさん出てきます。ただ留めていただけではなく、深く考えていたのだと思います。考えて、考えて、その考えの上に立って謙虚になって人のために生きようとしていたのではないかとおもわれるのです。
 
   謙虚な心を持つためには、自分の愚かさや弱さ、それに罪深さについても考えて行かなければなりません。パウロがわざわざ上のフィリッピ人への手紙の中で私たちに勧めていることは、最終的に成熟した心を持つために必要最低限の事柄を私たちに教えているのです。人間関係の中でどう生きるべきか、人間としてどうあるべきかを語っていることは間違いないことです。
 
  死ぬまで、私たちはこの“涙の谷”で心を鍛え、様々な出来事の中で深く考え、周りの価値観ではなく、自分の謙遜な価値観の中で自分の心を造り育てて行かなければならないのでしょう。そしてそれを教え続ける必要が在るのだとあらためて感じます。
 
この四旬節を無駄に過ごすことなく、今の自分をしっかり見つめながら歩みたいと考えています。

校長 山口道晴
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