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校長先生のお話

瞑想2
2014-10-03
 先日、学校で桝野俊明さんに一年ぶりにお会いしました。相も変わらず本当に謙遜と言う言葉が、体全体から溢れだすような合掌の姿勢を再び見させていただきました。色いろな思いが心の隙間から溢れだしてきます。この一年間私は成長してきたのだろうか。徳をどれほど積んだのであろうか。どれほど祈って来ただろうかなどと考えてしまいました。桝野俊明さんの姿を見た瞬間に心がそのようなことを考え始めたのです。
 
 今年もまた、5年生が「座禅静修会」を行うことになり、シスターAの不思議なご縁で超多忙な中から無理に来ていただいた導師でした。去年はじめて来ていただいたときは、座禅などとは全く縁のない普通の生徒たちにどのように座らせるだろうか、どのように座禅の素晴らしさを伝えるのだろうかなどと疑問に思ったものでした。でも二日間が終わってみると、生徒たちの顔が微妙に変化しているようにも感じられました。具体的にどうと言うことが出来ないくらいの変化でしたが。
 
  今年も生徒は初めてでしたが、導師は2年目で手慣れた様子であっと言う間に、生徒たちに何か見えないものを与えているかのように、形が整うのがわかります。ピンと張りつめた緊張感が生徒たちの中で作られていきました。それを見届けてシスターと学校に戻りました。不思議なくらい心はとても穏やかでした。
 
  キリスト教とはまったく別の教えである仏教の世界を感じさせることによって、日本には、修行と言う手足を使って心を整えることが出来る道があることを教えたいと、それまで続いていた坐禅静修会をこれからも継続させたいと思っていました。
 
  私が属していた修道会では、座禅を他宗教のものとして、一切認めないイタリア人の修練長のもとで修練をしたことを覚えています。31歳のときローマに留学して、グレゴリアン大学(上智大学の前身で、紀元700年くらいに建てられた学校です)で霊性神学を学んでいた時に、日本の上智大学の東洋思想研究所から門脇神父様が大学に来られ『座禅』についての実践と体験をさせていただきました。ヨーロッパの各地から300人くらいが集まっていたように思います。面白いことに多くの外国の人たちから、「悟りを得るためには何日必要なのか」と尋ねられたのには、びっくりしたことを覚えています。
 
  座禅は、祈りの前の心の準備のようなものであると、その時門脇神父様からお聞きしたような記憶もありますが。生まれて初めての座禅の体験の中で、自分のDNAの中に仏教的なものが確かにあると感じたときでもありました。その後の1週間の参禅会では最初120名もいた人たちが、最後には30名になったのです。非常につらい1週間でした。
 
  それから、イエズス会の司祭で当時ローマのイエズス会で生活をされていたY神父様のもとで、正座禅、寝禅、結跏趺坐、半結跏趺坐等を学びながら、日本に帰ってからも数年に渡ってひたすら座り続けた思い出があります。具体的に何か役に立ったかと言うと言葉で表すならば「平和」をいただくことが出来たようにも思うのですが、実際の記憶の中では絶え間ない雑念との戦いであったようにも思います。継続こそが大切なのだと考えさせられた日々でもありました。
 
  笠岡教会に赴任してきて、自分の部屋の中に座る場所を作り、ミサの前、講話をする前に座っています。それなりに重要なことだなと思います。説教の準備をしていたとしても、実際にミサの中でお話をさせていただいているときに、強く聖霊の働きを感じる時もありますし、ミサにとっても集中している自分に気が付くときもあるのです。
 
  逆にたくさんの心配事を抱えている時に、よく大きなミスをすることにも気が付きます。集中が足りないと自分を叱咤激励しながらミサをすることもたまにあるのですから、本当に祈りの前に心を整えることは大切なことなのだと30年前に言われたことが思い起こされます。
 
  心から雑念をある程度取り払って、瞑想に移る時、聖書のみ言葉が良く心に沁みてきます。聖書を開き、あるいは聖書と典礼(日曜日に読まれる三つの聖書の箇所と共同祈願、祈願文が印刷されたもの)を読むときその言葉の意味が、三つの朗読、共同祈願文、集会祈願文、奉納祈願文、拝領祈願文を通して響き方が違うことに気が付きます。
 
  坐禅と言う世界が、信仰生活を深め支え導く大切な導入になっていることを教えて下さった門脇神父様と、先月二十日に東京四谷のクルツームハイムでお会いできました。懐かしそうにお話し下さったことが今も心に残っています。
 
校長 山口道晴
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