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校長先生のお話

パウロについて考えたこと
2013-06-29
 あという間に6月が終わろうとしています。私は、6月を「パウロの月」と考えています。なぜかと言うと6月29日が「聖ペトロ・聖パウロの祝日」でありますが、以前いた修道会では、6月30日を「聖パウロの大祝日」として特別にお祝いしていたからです。
 
  ですから、私の中では6月は、いつもパウロの月なのです。今年もまた私にとって聖パウロの月を迎え、生徒に「聖パウロ」について熱く語ったひと月でした。
 
  今年だけでなく去年も生徒に聖パウロのついて語ったのですが、今年は私にとって特別な大きな収穫の時期になりました。
 
  ローマの属州キリキア州(現在のトルコの南部にあたる)のタルソスという町で生まれたパウロ(A.D.5~67)は、厳格なユダヤ教徒の父母のもとで育てられ、ローマ市民権を持っていたことが、彼の書いた手紙の中から窺えます。
 
  そして、若くしてエルサレムに留学をしています。宗教生活に対する厳格な律法主義を基盤とするファリサイ派に属し、ギリシャ語・ヘブライ語・ラテン語を話し、エルサレムの中で5本の指に入るとされる律法学者ガマリエルのもとで、律法を学んだと言われています。また、キリスト教を多神教として否定し、最初の殉教者となったステファノの殺害に賛同するものとして描かれています。(使徒言行録7章54節~8章1節まで)
 
  本当に熱意に満ちた、厳格に律法を守ることに情熱を傾けたパウロは、キリスト教徒の迫害にまでエスカレートしていくのです。キリスト教徒は、パウロを恐れます。なぜなら彼がキリスト教徒を迫害し、捕えてエルサレムに連行したという事実があります。ダマスコに逃げ込こんだキリスト教徒たちを捕える許可をもらって、ダマスコに行く途中で不思議な出来事が起こります。
 
  それが何であったのかは使徒言行録の9章の1節~19節に書いてある通りなのでしょう。それがどういうものであったかは、誰も見ていないし、客観的な説明は一切ありません。ただ、それ以後のパウロは、ユダヤ教を守るためにキリスト教徒を迫害した同じ情熱をもって、キリスト教を宣べ伝えたことだけが新約聖書には書かれています。
 
  『パウロの回心』と呼ばれるその出来事は、ユダヤ教の人たちにとっては裏切り者として憎悪と復讐の対象となったことは、想像するに難くないことでした。
 
  また、キリスト教徒にとっては、また、いつ裏切られるかわからない存在であったし、信じがたいことであったのです。(使徒言行録9章19節~22節参照)
 
  そのために彼は、エルサレムでの宣教をあきらめざるを得なかったのです。ですが、それが逆にキリスト教の世界的(当時のローマ帝国に支配されていた地中海沿岸の国々です)な広がりにつながっていくのですから、本当に神様のパラドックス(逆転の発想)の不思議さにあらためて感動を覚えるのです。もし、パウロの宣教がなかったと考えるならば、フランシスコ・ザビエルの日本への宣教もなかったのではないかという思いも広がります。また、本学の存在もなかったようにも思えてなりません。
 
  私は、いつもパウロの持っていた宣教に対する熱意がほしいと思っています。もっと熱意をもって、罪なき者であったにもかかわらず、私たちのために苦しまれ、十字架に掛り死んで三日の後に復活されたキリストを伝えたいと願ってやみません。
 
  キリスト教だけが教える、「死を超えて復活しキリストと共に救いに与る」ために、私たちはキリストの生涯が「他者への愛のための生涯」であることを知っています。他者のために生きるということは、自分自身が苦しむことであるということも分かっています。キリストのように復活したいのなら、キリストが教えた「私が愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)を実践する以外にないのです。ですからパウロは、人々に救いの秘義を伝えるために、たくさんの苦しみを味わいました。(Ⅱコリント11章25節~27節参照)
 
  パウロについて考える時、毎回たくさんの新しい発見がありますし、元気になれる力をもらっているようにも思います。次回ももう少しパウロについてお話ししてみたいと思います。
 
校長 山口道晴
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