「園長の日記」
2022年からの日記の再編集、そして新規のものも少しずつ
子育ての歴史を大切にしたい
毎年、「健康教育」という季刊雑誌が園に送られてきます。肝油ドロップの会社の創業者が子どもたちのすこやかな成長を願って創刊された無料の冊子で、いつもどこかに響く内容が見つかります。
最新のNo.204号では、子育てについて久保山茂樹先生という方が書かれていた言葉に共感できました。私なりの読書メモです。
子育てをしていると、うれしいことばかりではなく、親として失格だなと自分を責めてしまう思う日もある。でも、日々の暮らしの中で、喜びも悲しも親子だけで共有してきた歴史を誇りに思っていいのでは。「それでいいよ。だいじょうぶ。」と肩の力を抜いて、自分らしい育児を続けていこう。
親は子どもと「向き合う」べきだと言われることが多いが、子どもと「並んでみる」といい。上から目線にならずに、自然なコニュニケーションが生まれる。
園に来る機会に、他の子どもの様子が気になることがある。廊下に掲示している絵が目に入る。あんなに上手な子がいるのに、我が子は・・・。
他の子と比べるのはよくないということは分かっている。でも、将来を心配するのは親として当然。少し落ち着いて、まず今ここで生きている我が子の姿を大切にしよう。
なぜこども園に
こども園への移行は、「一体性・一貫性」がキーワードだと感じています。
これまで60年以上にわたって、福山の地で幼稚園として取り組んできたこと、保育園として実績を残してきたことをそれぞれ活かしながら、よりよい教育・保育を一体的に実践していくために、幼保は合流したと説明できます。そして、同じ敷地内にある小学校、中高等学校との一体性にもつなげていけたらと考えています。
説明会でもお話したように、今回の改革は、こども園に「変わる」というより、むしろよりよい方向に向かって「動く」というイメージを持っています。守るべきものの中から、新しいものも作り出していきたいという思いがあるので、慣れ親しんだ伝統ある「福山暁の星幼稚園」という名前をあえて残さないで、新しく「福山暁の星こども園」を園名にしました。
対話を通して、みんなで前向きに、少しずつ動かし、新しい園づくりに挑戦したいと思います。
対話を通して、みんなで前向きに、少しずつ動かし、新しい園づくりに挑戦したいと思います。
「異年齢の学級編成」
自分が通った幼稚園はもちろん、我が子が通った幼稚園も、年長・年中・年少と同じ年齢の子たちでクラス編成がされていました。では、本園では、なぜ異年齢の縦割保育をしているのでしょうか。
本園では、幼稚園生活の先輩である年長さんはAさん、年中さんはBさん、そして、入園したばかりの年少さんはCさんと呼ばれています。園バスが到着してからの様子を見ていると、Aさんの中には、自分が降りた後にCさんがバスから降りてくるのをじっと待っていて、降りたのを見届けると手をつないで教室まで連れて行っている姿がありました。Aさんたちにとっては、自分たちがこれまでしてもらったように下の子たちのお世話をすることは、自然でやりがいのあることのようです。
昔と違い、少子化で兄弟が少なくなり、年下の面倒をみたり、思いやりの気持ちをもって接したりする経験はとても貴重なように思います。考えてみれば、もともと社会は異年齢の集団で構成されていて、同年齢集団で過ごす学校が特殊だということになります。
もちろん、発達段階に応じた同年齢での活動も必要なので、1日の保育時間の中では、横割活動も確保しています。縦割と横割のどちらも必要なようです。
「やりたいことを見つける価値」
入園面接をしていると、本園を選択された理由として、「やりたいことを自分で見つけていく方針に共感した」というお話を一番たくさんうかがいます。モンテッソーリ教育を特色としている本園では、確かに子どもたちが自分のやりたいことを自由にできる時間が十分にあります。使ってみたいと思わせる面白そうな教具の中から、子どもが自分で自由に選んで、トレーニングを受けた教師による適切な援助で、自己形成をしていくことができます。
一方で、年齢に応じて、同じ活動を体験させるよさもありますので、体操、絵画、音楽、英語などは、一斉に学ぶ時間も取り入れています。
自由に選んで「おしごと」をしている時は、不思議なほどみんな静かで集中しています。見学された方は、「うちの子は、こんなに落ち着いていません。」と不安に思われますが、やりたいことに取り組んでいる時は、自然に静かになるもののようです。もちろん、外遊びの時には、みんな元気いっぱい走り回っています。
自分が心からやってみたいと思う内発的動機付けの力は大きいです。それは、私たち大人が仕事をする時でも同じでしょう。人間は、やらされるのではなく、自分からやってみたいと思ったときに、力を発揮するものだからです。決められたレールの上を能率よく走る時代から、新しいことを切り開くことを求められる時代に変わり、やりたいことを自分で見つけられる力は一層重要になっています。
一方で、年齢に応じて、同じ活動を体験させるよさもありますので、体操、絵画、音楽、英語などは、一斉に学ぶ時間も取り入れています。
自由に選んで「おしごと」をしている時は、不思議なほどみんな静かで集中しています。見学された方は、「うちの子は、こんなに落ち着いていません。」と不安に思われますが、やりたいことに取り組んでいる時は、自然に静かになるもののようです。もちろん、外遊びの時には、みんな元気いっぱい走り回っています。
自分が心からやってみたいと思う内発的動機付けの力は大きいです。それは、私たち大人が仕事をする時でも同じでしょう。人間は、やらされるのではなく、自分からやってみたいと思ったときに、力を発揮するものだからです。決められたレールの上を能率よく走る時代から、新しいことを切り開くことを求められる時代に変わり、やりたいことを自分で見つけられる力は一層重要になっています。
「人を動かす言葉かけ」
幼児期の子どもたちの成長はめざましく、1年でこんなにもできるようになることが増えてくるのだとあらためて感じます。
国が定めた「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」というものがあって、幼稚園にも、保育所にも共通して存在しています。これは、到達目標ではなく、小学校との接続がスムースに行われることを目指したものです。
学校的な発想だとついつい「~ができるようになることを目指す。」というように思いがちです。でも、ここに注目しすぎると「引っ張る」ような保育になり、子どもたちの主体性や自主性を大切にする「待つ」保育には、たどり着けないことになります。
遊びを中心とした自発的な活動の中から、育ってほしい姿に導いていくというのは結構難しいことです。外遊びの終わりを知らせる鐘が鳴っても、なかなか入ろうとしない時の言葉かけは、試行錯誤です。これまで、ほめて動かすことを中心にしていたようで、実は叱咤、激励の言葉かけで結構引っ張っていたかもしれません。
「じゃ、ヨーイドンで競争しよう」と誘いをかけたり、「お部屋に戻って、〇〇を見せて」と促したりしている先生たちの言葉かけと子どもたちの反応を日々観察し続けています。
分かってきたことは、どの子にも通じるような魔法の言葉はないということです。個に応じながら、目指す方向に導いていくことの難しさとおもしろさは、教育の現場では共通していると感じます。
「時のしるしに気づけるように」
先日、「モンテッソーリ教師の12の心得」を職員みんなで読み直したところです。あらためて、大切にすべき内容を再確認するとともに、何を新たにしていかなければならないか日々考えています。
創立30周年記念誌には、学院を創られたシスター方の思いが書かれていて、あらためて進むべき道しるべになりました。国際的な視野と心を持った人間を育てたいという一心で、数々の苦労を乗り越えて日本にこられた姿が書かれています。創立当初のシスター方の「冒険心」に感動します。
最も心に残ったのは、時のしるしを見る敏感な心を持つことを重視されていたことです。自分の抱いているイメージに固執しすぎず、よりよく現代に生きるものでなくてはならないと書かれていました。
私たちの社会や生活を通して、神が示そうとされている時のしるしを感じ、何をすべきかに気づく日々を送りたいものです。
今のうちに
外遊びの時間は、1日2回あります。できるだけ外遊びには関わるようにしていますが、日によっては、子どもたちの声を聞きながら、パソコンに向かう時間を伸ばしている時があります。そういう時に限って、お誘いの声がかかります。「えんちょうせんせい、いっしょにあそぼう。」
大声で呼びに来るのは、だいたい年少たちです。そうなると、仕事はストップ。帽子を持ってあわてて、くつを履き替えに行きます。
誘われたと言っても、だいたい「このプランターを動かして!。」と、ダンゴムシを探すための助手をしてほしい時が多いです。次々と関心が移り、うれしそうに動き回る姿がおもしろいので、人使いは大変荒いのですが、助手の役割を喜んで務めています。
その途中で、他の学年の子たちとも関わりながら、様子を見ています。そういえば、去年ずっとくっついていた子たちも、年中さんになると友達との関わりに移っています。そして、年長さんたちは、集団での遊びもするようになっています。もちろん、個人によって、日によって、それも様々です。やりたいことを基本にしながら、先生たちが様々な仕掛けを用意して、遊びを広げています。
そのうち、今、誘いに来てくれている年少さんたちも大きくなって、「大きな遊び相手」は必要なくなる時が来るのでしょう。今のうちに、しっかり助手の役割を果たしておかなくては。
大声で呼びに来るのは、だいたい年少たちです。そうなると、仕事はストップ。帽子を持ってあわてて、くつを履き替えに行きます。
誘われたと言っても、だいたい「このプランターを動かして!。」と、ダンゴムシを探すための助手をしてほしい時が多いです。次々と関心が移り、うれしそうに動き回る姿がおもしろいので、人使いは大変荒いのですが、助手の役割を喜んで務めています。
その途中で、他の学年の子たちとも関わりながら、様子を見ています。そういえば、去年ずっとくっついていた子たちも、年中さんになると友達との関わりに移っています。そして、年長さんたちは、集団での遊びもするようになっています。もちろん、個人によって、日によって、それも様々です。やりたいことを基本にしながら、先生たちが様々な仕掛けを用意して、遊びを広げています。
そのうち、今、誘いに来てくれている年少さんたちも大きくなって、「大きな遊び相手」は必要なくなる時が来るのでしょう。今のうちに、しっかり助手の役割を果たしておかなくては。
「一人でできるように手伝って!」
園庭でいつものように子どもたちと遊んでいたところ、後ろの方で大きな泣き声が聞こえてきました。どうやら遊具から降りられなくなったようです。助けに行こうと見ると、遊具の下には先生がいました。そして、「だいじょうぶ。おりておいで。」とやさしく声をかけていました。
その子は「こわい。できない。」と叫んでいましたが、先生が「後ろ向きにおりておいで。」「足をくさりにのせてごらん。」と降りるための手順を少しずつ説明していきました。
「だめ、こわい。」と言いながらも、先生に言われたとおり、少しずつ足をおろしていきました。そして、一歩ずつ一歩ずつ後ずさりするような動作で、遊具の上から無事地面に戻ってきました。到着した時のうれしそうな笑顔。先生にも、たくさんほめてもらっていました。
そばで見ていた私は、「よかったね。」と単純に思っていたのですが、何と先生は「もう一回行ってみる?」と声をかけました。そして、その子は、やっと降りてきたはずの遊具の上に、もう一度チャレンジしていきました。
できないと泣いている姿を見ると、かわいそうになってついすぐに手をかしてしまいそうになります。でも、ちょっと待ちながら、そっとサポートしながら、自分の判断で行動させていくような関わり方が求められると思いました。
「祈りの意味」
学院の中で最も歴史のある中高の塔から聞こえてくる「アンジェラスの鐘」。鐘の音が聞こえている間、学院全体が祈りのひと時になります。園では、子どもたちが食事を終えてほっと一息という頃に聞こえてきます。
祈りは、「かみさまとお話をすること」とよく言います。でも、聖人たちのように直接神と対話できない私たちにとっては、祈りは一方通行に思えるかもしれません。
祈りとは、神の思いを感じるために、1日の中に少し立ち止まる時間を持つことで、いつもほとんど外に向かっている心を内面に向ける時であると考えたらどうでしょうか。
そして、祈ると言えば、自分に都合のいいことをお願いしがちですが、わたしたちの望むことがすべてためになるとは限らないので、「わたしに必要なものをください」という信頼を持って祈りたいものです。
自分の願いを果たす道具として神を使おうとするのではなく、身の回りに起きている出来事の中で神が自分をどう使おうとしているか、心を澄ませて聴けるようでありたいと思います。
「クリスマスの心」
今年も、クリスマスを意識する時期になりました。カトリック学校にとって、クリスマスは特に大切な喜びの日であり、様々な取り組みが実践されています。本園でも、クリスマスの意味を学ぶ活動や周りの人たちに優しい気持ちを届ける活動をがんばっているところです。
クリスマス献金は、いろいろな取り組み方があると思います。
「がまんの献金」がなかなか貯められない私は、家にびんを用意して「小銭回収募金」をしています。キャッシュレス時代とはいえ、まだ現金対応の店があるので、支払いを済ませた後、小銭が財布に戻ってくることがあります。そのおつりの小銭をびんに入れることにしています。皆さんも、いかがですか。財布がスリムになって一石二鳥です。
喜ばれること、望ましいことを積極的にやってみる期間にするのも、クリスマスにはふさわしいです。いつもなら通勤電車から真っ先に降りようとしているのに、少し譲る気持ちになれるのがこの季節です。
私たち大人も、心を豊かにする期間として、クリスマスを迎える時期を大切にしたいです。
「運動会の練習、好きでしたか」
運動会に向けて、毎日練習をがんばっているので、帰りの園バスでは、ほとんどの子が爆睡していると聞きます。
日本の学校に通っていれば、みんなどこかで運動会の思い出があると思います。私には、自分が小学生の時と先生として関わった時の両方の思い出があります。
小学生時代は、運動会の練習が始まると「授業がなくなる」のがうれしかったです。走るのは、けっこう速かったので、かけっこやリレーの練習を楽しみにしていました。ただ、2年生ごろまでは、かけっこが競争だということが分かっていなかった記憶があります。兄弟や友達の話を聞いて、「速い方がいいらしい。追い抜いてもいいんだ。」ということを知ったわけです。競争を知らない幸せな時代でした。
先生になってからは、教え子に「先生、足がおそい人にとって、運動会がいかに苦痛か分からないでしょ。」と言われたことが印象に残っています。抜かれていく姿をみんなの前で見られるのが運動会であれば、確かにいやでしょうね。もちろん、運動会にはリレーだけでなく、ダンスなど様々な種目があるのですが、私の息子は、ダンスの練習が苦痛で、娘はダンスが大好きでした。
まずは、運動が好きな人も、そうでない人も、みんな神様からいただいた力を発揮し楽しめる場になるようにしていきたいですね。
「園庭改造計画」
毎日、園庭をながめて考えています。園バスを待っている間や外遊びの時などを利用して、園庭を歩き回って、よりすてきな環境にしていくために何ができるか構想を巡らしています。
本園の園庭は、広さもしっかりあり、木々にも恵まれています。それらを活かし、子どもたちの喜ぶ生き物にあふれた環境を目指しています。他の園の様子を調べたり、先生たちに意見を聞いたりしています。
「池はどう?魚やカメ、かえるがいたら喜ぶと思うよ。ビオトープって知ってる!」
「でも、転落の危険があるでしょう。」
園庭は、楽しいだけでなく、安全でなければならないし、運動会ができるスペースは必要だし、時には駐車場としても活用できなければなりません。雨が降ると通り道がなくなるのも検討課題の一つです。
今回、園庭の周辺にある金属製のグレーチング(排水溝の格子状のふた)に専用の茶色のゴムシートをかぶせることにしました。以前に、ここでころんでけがをした例があったようです。ゴムシートは柔らかく安全である上に、小さな穴から水は抜けていっても、土や木の葉などはシートの上に残ります。遊具のある周辺は、大きな木の陰になり、地面には季節ごとに様々な葉っぱが落ちてきて、虫の住処になりそうです。ここを、まず改善の足掛かりにしようと思います。
寒いのに、どうしてジャンパーは着ないの
ここ数日はかなり寒い日が続いています。
バスが到着して、降りてくる子たちにいつものように朝の挨拶をしていると、添乗の先生から「本人は上着を着ないと言っているけど、お母さんから預かっています。」ということで、上着を受け取りました。「子どもは動きにくいジャンパーよりも、もう少し薄手の上着で十分なんだろう。」と単純に考えて受け取り、担任の先生にも事情を説明しておきました。
しばらくして、今度は保護者の方が送ってきてくださる中で、やっぱりジャンパーを着たくないと言っているようでした。この時は、他の先生が「ここは寒いから、中でお話ししよう。」と説得して、園舎までいっしょに連れて行きました。
いろいろ話を聞く中で、もしかすると、ジャンパーのファスナーがうまくできないから着たくないと言っているのではないかということが分かってきました。なかなか言葉でうまく説明できないから、着たくないという表現で伝えていたのかなと思いました。私たち大人でも、手がかじかんで、なかなかうまくファスナーの金具が合わせられないことがありますよね。
朝の支度として、脱いだばかりのジャンパーを床の上にていねいにT字型に広げて、小さい手で一生懸命たたんでいる姿を見ながら、自分でできるようになりたいからこそ、抵抗のあるファスナーにとまどいを感じているのかなと思ったところです。
バスが到着して、降りてくる子たちにいつものように朝の挨拶をしていると、添乗の先生から「本人は上着を着ないと言っているけど、お母さんから預かっています。」ということで、上着を受け取りました。「子どもは動きにくいジャンパーよりも、もう少し薄手の上着で十分なんだろう。」と単純に考えて受け取り、担任の先生にも事情を説明しておきました。
しばらくして、今度は保護者の方が送ってきてくださる中で、やっぱりジャンパーを着たくないと言っているようでした。この時は、他の先生が「ここは寒いから、中でお話ししよう。」と説得して、園舎までいっしょに連れて行きました。
いろいろ話を聞く中で、もしかすると、ジャンパーのファスナーがうまくできないから着たくないと言っているのではないかということが分かってきました。なかなか言葉でうまく説明できないから、着たくないという表現で伝えていたのかなと思いました。私たち大人でも、手がかじかんで、なかなかうまくファスナーの金具が合わせられないことがありますよね。
朝の支度として、脱いだばかりのジャンパーを床の上にていねいにT字型に広げて、小さい手で一生懸命たたんでいる姿を見ながら、自分でできるようになりたいからこそ、抵抗のあるファスナーにとまどいを感じているのかなと思ったところです。
「専業主婦だってサポートが必要」
先日、子育てに関する負担感を調べたグラフを見る機会がありました。その調査では、予想通り多くの母親が多かれ少なかれ負担感を感じていることが示されていました。特に印象に残ったのは、専業主婦のほうが負担感を大きく感じているということです。
仕事を持つ家庭は保育所を利用できますし、3歳以上の子どもがいる専業主婦は、幼稚園で子育ての情報を得たり、子どもと離れる時間を確保したりできます。それによって、負担感が軽減されているとしたら、保育園にも幼稚園にも所属できず、家族の支援が期待できない専業主婦の方たちが、負担感を感じられているのはよく分かります。
昔は、子供たちの数も多かったので、地域社会が子育てに関わっていて地域でまとめて面倒をみている感じもあり、大家族の中に相談できる人もいたと思います。今は核家族化し、生活が便利になったために、一人で子どもと向き合う時間が長くなっています。
本園には、保護者が就労しているかは問われない、2歳と満3歳の子たちのためのクラスもあります。このクラスには、幼稚園に入る前に少しずつ集団生活に慣れていくための準備という役割がありますが、保護者の皆さんからは、子育てについて不安に感じていたり、悩んでいたりしたことについて、いっしょに関わってもらえてありがたかったという声をたくさん伺いました。お子さんのためだけでなく、保護者をサポートする役割が求められていることが分かります。
「聞くことの大切さ」
園では、子どもたちが毎日よく話しかけてくれます。がんばって聞いていますが、正直なところ、半分くらいはよく分からないことが多いです。きっと、前提になっている子どもたちの世界の知識が不足しているのと担任の先生たちと比べるといっしょにいる時間がやっぱり短いからだと思います。
そんな私にも、いっしょうけんめい話しかけてくれるので、よく分からなかった時も、「そう!」としっかりうなづくようにはしています。「ごめん。本当はよく分からなった・・。」と不安になりながら顔を見ると、うれしそうにしてくれているので、よかったなあと思います。話した内容についてのコメントやアドバイスがほしいのではなく、聞いてほしいのだと分かります。外遊びの時は、うんていや鉄棒ができた時に「園長先生、見て!」と複数の子たちから「みてみてこうげき」を受けることが多いです。
自分の経験に基づいた一方的なアドバイスよりも、相手の話をまず聞くことの方が大切な場合があるようです。
「乗り越える時」
朝の登園時、泣き叫んで「おかあさんがいい!」と言っている子を無理やり抱きかかえて教室まで連れていく姿にはなかなか慣れません。保育者や保護者の皆さんにとっては年中行事ですが、知らない人が見るとまるで誘拐犯が拉致しているみたいに見えるかもしれません。
新学期の初めや連休明けなどの節目に多くなる傾向がありますが、そういう気持ちになるタイミングや期間はその子によっても違うようです。外遊びの時に、うつむいて涙ぐんでいるので、かがんで聞くと「おかあさんがいい・・」とつぶらな瞳でつぶやかれたこともあります。
泣き叫ぶまでにはいかないまでも、門のところでおうちの方と離れがたくなっている姿はよく見かけます。保護者の方も、慣れたもので先生に託してさっと姿を隠していかれます。
気になるので、その後、そっと教室に様子を見に行くと、たいていは、みんなといっしょに楽しそうに遊んでいる姿があります。個人差はあるでしょうが、ここは乗り越えさせていくべき時なんだなと思います。
それにしても、そこまで「お母さんがいい!」と言ってもらえるなんて、うらやましいですね。今のうちかもしれませんよ。
古くて新しいモンテッソーリ教育
岡山からの通勤時間は1時間以上ありますので、元気な時は?読書タイムに最適です。
園の本棚にあったモンテッソーリ教育の本は、私にはちょっと難しい部分もありましたが、これで基本を学ぼうと今3巻まで何とか進みました。園の先生たちが子どもたちと関わるときにどうしてそうしているのかが分かる記述に出会うと「そうなんだ。」と一人で納得しています。
一般向けの「モンテッソーリ教育を受けた子どもたち」いう本は、とても分かりやすく、興味深い内容でした。教育は時代の要請によってずいぶん影響を受け変化してきていますが、モンテッソーリ教育は、AIの時代になってますます見直されるようになってきています。オバマ大統領やビル・ゲイツ、アマゾンのジェフ・ベソス、グーグルのラリー・ペイジなども、モンテッソーリスクールの卒業生なんだと知りました。
もちろん社会的な成功が目的ではなく、「変化が刻々と激しくなっていく現代に生きる子供たちが、時代の変化に流されない自然の法則・生命の法則に基づくモンテッソーリ教育から恩恵を受けることを願って」いると書かれていました。
古くて新しいモンテッソーリ教育です。奥が深いです。
園の本棚にあったモンテッソーリ教育の本は、私にはちょっと難しい部分もありましたが、これで基本を学ぼうと今3巻まで何とか進みました。園の先生たちが子どもたちと関わるときにどうしてそうしているのかが分かる記述に出会うと「そうなんだ。」と一人で納得しています。
一般向けの「モンテッソーリ教育を受けた子どもたち」いう本は、とても分かりやすく、興味深い内容でした。教育は時代の要請によってずいぶん影響を受け変化してきていますが、モンテッソーリ教育は、AIの時代になってますます見直されるようになってきています。オバマ大統領やビル・ゲイツ、アマゾンのジェフ・ベソス、グーグルのラリー・ペイジなども、モンテッソーリスクールの卒業生なんだと知りました。
もちろん社会的な成功が目的ではなく、「変化が刻々と激しくなっていく現代に生きる子供たちが、時代の変化に流されない自然の法則・生命の法則に基づくモンテッソーリ教育から恩恵を受けることを願って」いると書かれていました。
古くて新しいモンテッソーリ教育です。奥が深いです。
持続可能な職場
プロ野球で一人も塁に出さずに完璧におさえることを完全試合と言います。その完全試合を最年少で達成した投手がいます。勢いに乗って次の試合も8回まで抑え込んでいて、あわや2試合連続で大記録達成かという目前で監督が交代を命じました。この対応には、賛否両論あり、私などは「せっかくのチャンスなのにもったいないなあ。」と思いましたが、監督は、疲労している状況を見て、記録よりもこれから長く続けていくためには無理をさせないことの方が大事だと判断したようでした。その後も、登板間隔をあけてもらいながら、活躍しているようです。
これまで日本では、けがを隠してでも無理して頑張ることを美化するところがあったような気がします。昭和人間の我々は、「24時間戦えますか」というフレーズで、夜遅くまで、そして時には休日にも出勤して働くことをほこりに思う世の中に生きてきました。でも、これからの時代は、持続可能な働き方にしていくことが求められます。教育現場で働くことを希望する人が減っている中で、次代を担う新しい先生たちに職場として選んでもらい、長く働いてもらうためにも必要なことだと感じています。教育内容を維持しながら行う、この舵取りは大事です。
これまで日本では、けがを隠してでも無理して頑張ることを美化するところがあったような気がします。昭和人間の我々は、「24時間戦えますか」というフレーズで、夜遅くまで、そして時には休日にも出勤して働くことをほこりに思う世の中に生きてきました。でも、これからの時代は、持続可能な働き方にしていくことが求められます。教育現場で働くことを希望する人が減っている中で、次代を担う新しい先生たちに職場として選んでもらい、長く働いてもらうためにも必要なことだと感じています。教育内容を維持しながら行う、この舵取りは大事です。
女の子は無事に
先日の帰りの電車の中での出来事です。
福山駅から乗り込んで席を探そうとしていると、2人掛けの席にランドセルとパソコンを広げて小学生の女の子が一人寝ているように見えました。その時は「ああ、ここは座れないなあ。」と思っただけで、空いている席を見つけて座りました。
電車が動き出し、いつものように本を読んでいました。何駅か電車が進んでいっても、女の子が降りていく気配はありません。
福山駅から乗り込んで席を探そうとしていると、2人掛けの席にランドセルとパソコンを広げて小学生の女の子が一人寝ているように見えました。その時は「ああ、ここは座れないなあ。」と思っただけで、空いている席を見つけて座りました。
電車が動き出し、いつものように本を読んでいました。何駅か電車が進んでいっても、女の子が降りていく気配はありません。
「遠いところから通学しているんだな・・」「いや、もしかして、まだ寝ているのでは。」
気になったので、混雑している車内で、席から体を伸ばして見てみました。やっぱり女の子は眠っているようです。もう本を読んでいる場合ではありません。
私が3月まで勤めていた小学校でも、電車通学の子はたくさんいて、年に何回かは「駅で待っているけれど降りてこない」という電話が保護者からかかってきて、大探しをする騒ぎがありました。
私が3月まで勤めていた小学校でも、電車通学の子はたくさんいて、年に何回かは「駅で待っているけれど降りてこない」という電話が保護者からかかってきて、大探しをする騒ぎがありました。
「きっと、これにちがいない。」「でも、おじさんが声をかけると不審がられるかもしれない。」
などいろいろ考えていると、何といいタイミングで車掌さんが通りかかりました。しかも、女性だったので、思い切って手を挙げて女の子が寝ていることを知らせました。制服姿の車掌さんは、すぐ女の子を起こして事情を聞いてくださったようです。まだ眠そうな女の子といっしょに通路を出ていかれました。
しばらくして、車掌さんが席までお礼に来てくださいました。福山駅で降りるはずだったようで、無事に連絡がついたとのことでした。子どもが気になるのは職業病というべきか、おせつかいが役に立った日でした。
園でこの話をすると、先生たちの中にも、バスで車庫まで連れていかれた経験があるとのことでした。女の子も無事助けられたし、不審者にもならずに済んだし、神に感謝。
しばらくして、車掌さんが席までお礼に来てくださいました。福山駅で降りるはずだったようで、無事に連絡がついたとのことでした。子どもが気になるのは職業病というべきか、おせつかいが役に立った日でした。
園でこの話をすると、先生たちの中にも、バスで車庫まで連れていかれた経験があるとのことでした。女の子も無事助けられたし、不審者にもならずに済んだし、神に感謝。