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校長先生のお話

クリスマスをどのように迎えましょうか
2016-12-01
 この「クリスマスをどのように迎えましょうか」という言葉は、先日教会の信者さんの一人の方が私に向かって言われた言葉です。私は、ふと迷いました。この方は「クリスマスの日には、教会でどのような準備をしましょうか?」と言われているのだろうか、あるいは「クリスマスまでの4週間をどのように過ごしましょうか?」言われているのだろうかどちらなのだろうと悩むところでした。だから二つのことについてお話してみたいと思っています。
 
  多くの方が「クリスマスは、子どもがプレゼントをもらい、ケーキを食べ、クリスマスツリーを飾って喜ぶ日」であるという固定観念がいつの間にか家庭で作り上げられているようにも感じています。クリスマスは自分たちとは直接関係ないものだとか、思われている方もたくさんいるように思います。
 
  笠岡教会の属する人たちは、クリスマスの夜にミサが終わると、温かいうどんやおにぎりを食べて、家路につくまでにお腹がすかないようにしています。子どもたちのためにビンゴゲームを通していろんなプレゼントを用意しています。
  たくさん子どもたちに教会に来てほしいという気持ちもありますが、やはり大切なことは、「キリストの誕生を一緒に喜びをもって心からお祝いする」という気持ちを大切にしたいと考えています。だからクリスマスミサに預かることをともかく大切にしています。
 
  クリスマスミサは、教会がとても大切にしているものです。なぜなら、「人としてどのように生きることが一番人間らしい生き方なのか」という人間の価値観の問題を正確に教えてくださったイエス・キリスト(油注がれた者であるイエスという意味)がこの世に現実にお生まれになったからです。
 
  またこの誕生は、2000年前から神がイスラエルの民に約束してくださったことであり、当時のユダヤ教の人たちはそれを心から待ち望んでいました。しかし、その望みは当時(紀元前60年頃から)ローマ帝国によって支配されていたことからの解放や、イスラエル民族のための救いでした。
 
  しかし、神がお望みになったのは「全世界の救い」であり、闇によって支配されていた(人間の自己中心的な価値観、例えば貧しい人や、困っている人を見ても何も感じない心、障碍者を生きてはいけない人のように考える心。様々な自分中心的な心)価値観から貧しい人、小さくされている人たち、子どもたちを開放し、新しい価値観をお与えになったことがキリスト教の大きな意味であり、キリストの誕生の意味ではないかと思うのです。
 
  そのキリスト・イエスを待ち望んでいたイスラエルの民が、大きく躓くのはイエスの十字架でした。多くの議員たちが「もしメシアなら十字架から降りてこられるはずだ」と言い、兵士たちも「もしメシアであったら十字架から降りよ」と言っていました。さらにイエスとともに十字架に掛けられた二人のうちの一人は「もしメシアであったら、俺たちを救え」と十字架から降りることが、メシアのしるしであると思っていたユダヤ人にとって、十字架から降りないことでメシアであることを示したのですから、ユダヤ人にとっての解放はあり得ませんでした。
 
  そこからイエス・キリストが、全人類の救い主として本当の生きる意味を教えてくださったのです。十字架の苦しみを通してこの世での苦しみの意味をお教えになり、生・老・病・死の苦しみについて考えさせ、この世の幸せのためではなく、天国での幸せのために、この世の苦しみが必要であったことを教えられたのです。
 
  今まで述べたことが、目に見える形でこの地上で多くの人たちにお示しになったイエス・キリストの生き方です。ただ弟子たちから聞いた教えではなく、歴史的にも存在し、歴史にも名を残しておられるキリストの生き方を見直し、生き方を主なる神に向け直そうと努力し始めるときこそ、私たちの「待降節」なのです。
 
  神に自分の生き方を認めさせるのではなく、自分の我欲に満ちた生き方を捨て、神の方に心を向け直す期間こそ、4週間の『待降節』に私たちがしなければならないことなのです。それは2000年をかけて心からメシアを待ち望んでいたイスラエルの民にもまして、私たちの心に「幼子イエス」を生まれさせるほどの深い希望と神様に心を向け直す強い気持ちが必要です。
 
  「クリスマスをどのように迎えましょうか」という言葉は、とても重要な言葉です。それは、この世的な商業主義的なベースに乗っかった「クリスマス」でないことだけは間違いないことです。またクリスマスミサのあの荘厳な雰囲気に酔いしれることでもなさそうです。
大切なことは、今まで耳でしか聞くことができなかった「神のみ言葉」が見える形で、それも人間の赤ちゃんの姿でこの地上にお生まれになったことなのです。そして、私たちはその生まれた赤ちゃんの生涯を振り返る時に、「人として、人間として」どのように生きるかを新約聖書を通して学ぶことができるのです。これ以上に素晴らしい生き方はないことに気が付きます。その誕生を誰よりも祝う必要があるのかもしれません。それが「クリスマスをどのように迎えましょうか」ということばの答えです。
 
校長 山口道晴
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