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校長先生のお話

6月には聖書を読もう
2015-06-08
 5月の最後の木曜日に、学校の下の修道院で聖書の勉強会を開きました。保護者や卒業生のお父さんたちが対象です。一昨年までは、純粋にお父さんばかりでしたが夜にしか参加できないと言うお母さんも現れて今は紅一点の存在となっています。毎回10人前後の人が仕事にやりくりを付けて参加して下さっています。聖書の専門ではない私のような司祭から説明を受けてますますわからなくなっているのではないかと時々不安になります。
 
  毎朝6時半からミサを行っていますが、何人かの方々がミサに参加してくださっています。その参加者に向かって福音書の解説を試みています。3分くらいの短いオメリアですが、これだけは前日には準備をしません。聖霊の息吹にふかれるように、聖霊に助けを願ってその時に浮かんだ考えを口にします。第一朗読に心が惹かれる時もあるのですが、頑なに福音書だけを解説しています。そうやってもう何年たつのかはわかりませんが、広島に来る前からずっとしていたように思います。
 
  雨宮神父様の本「なぜ聖書は奇跡物語を語るのか」という本の中で、聖書の話について次のように説明しています。「聖書は、単にあった出来事をできるだけ客観的に書いた書物ではない」と言っています。では何のために書かれたものなのでしょうか、「聖書は、歴史書ではなくその出来事の背後にひそんでいる意味なのです」と書いています。シンボルや詩的表現を使って理解した意味を伝えようとしたのではないかと言います。
 
  さらに具体的な一つのこととして「万軍の主」という表現を指摘します。これを読んだ人は、客観的に書かれたものであるとすれば、「旧約の神さまは、戦争の神ではないか」と疑問視するかもしれません。しかし、聖書のこの言葉を詩的表現として受け止めるならば、違う意味となるのです。「万軍」とは、夜空全体に広がる星を意味しています。夜空の星も、2000年以上も前の中東では、星の光を遮る人工の光などありませんでした。空一面に広がる星空は、見る人を圧倒します。
 
  私が、個人的に黙想会をミクロネシア連邦のポナペ島で行った時に、夜中に窓から幾つもの輝く宝石のような光を見たことがありました。外に出て見ると本当に空一面星で埋まっていました。何とも言えない背中がぞくぞくするような星の光に圧倒されたことを覚えています。水平線から山際まで隙間なく散りばめられた星を思い出します。
 
  話をもとに戻しますが、「万軍」とは、夜空一面に広がる星を意味しています。夜空の星は人を圧倒するような力をもっていますが、その星空の力強さが、町を守る軍隊のイメージと重ねられ、神の救いの力の確かさを強調する表現とされたのです。
 
  奇跡の話にしても、例えばマルコ6章45節~51節までに、イエスが5000人にパンを与え、祈るために山に行かれたことが書いてありました。弟子たちだけが船に乗って別の場所に移動していたのです。嵐にあって立ち往生していた時にイエスが湖上を渡り船に近づいて来られ、その船の横を通り過ぎようとされたのです。この「通り過ぎようとされた」と言う言葉に意味を見出す必要があったのです。
 
  船の傍を通り過ぎるイエスの姿は、読む人にとって疑問の残る行動です。なぜ困っている弟子たちをおいて横を通り過ぎようとされたのか。イエスらしくないではないか。どういう意味があるのかという疑問です。
 
  その意味がどのようなものであったのかを説明するために、雨宮神父様は次の三つの旧約聖書の箇所を示されています。出エジプト記33章22節、同掲書34章6節。そして列王記19章11節です。この3つの箇所は、「通り過ぎる神」の姿が描かれているのです。
 
  嵐で立ち往生する船の傍を通り過ぎようとされたのは、イエスさまでしたが福音の中では、通り過ぎられたのが実は神であり、その神はイエスであったことを読むものに伝えようとしたのです。聖書を何度も聞きながら、実際には目で追いながら読んでいるのに、実は何も見えていなかったのではないかと反省させられる話です。
 
  聖書を読むとは、ただ聖書に触れると言うことだけでは足りないのです。心の目と耳を開いて聴くことが求められているのだと言うことが言えるのではないでしょうか。まず読んで見ること、聖書の中に書かれてあるイエスの姿を心に留めることから始まるのでしょう。そして聖書の解説書を紐解いてみることを通して今まで気が付かなかったイエスの出来事の意味に触れることが出来るようになるのではないかと思います。新しい世界が開けそうです。
 
校長 山口道晴
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