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校長先生のお話

マリアさまの心 -ロザリオについて-
2015-05-02
 今から30年前にアイルランド・スペイン・ポルトガル・フランスを旅したことを毎年5月になると思い出します。ローマで勉学中ではありましたが、夏休みを使って一人旅したことがありました。それぞれの国にあるパウロ会の修道院を訪ねてお世話になりながら楽しい一人旅でした。
 
  アイルランドだけは、カルメル会。普通は原点回帰の改革が及んだ修道院は、頭に跣足(裸足-はだし)カルメル会と名前が付くのですが、アイルランドまでは改革が及ばなかったのだとそこの院長をなさっていた神父様が話してくれました。改革の中心はスペインの有名な聖女、アビラの聖テレジアと十字架の聖ヨハネがその役割を担ったと言われています。その修道会に3か月もお世話になりました。アイルランドの教会もスペインの熱狂的なマリア信仰とは違いますが、午後5時からのミサに先立ちロザリオの祈りが一還、瞬く間に唱えられていました。英語もイタリア語もスペイン語もアベマリアのお祈りがよくまとめられていて、リズムよく唱えられているという感じがしました。
 
  スペイン・ポルトガルは、平素でもマリアさまの御像の前にはたくさんのローソクが灯され、ミサを行っている時でも、マリアさまの前で大きな声でロザリオを唱えていた光景が思い出されます。もちろんそれは、本末転倒であることは分かり切ったことでもあるのですが、熱狂的な信者さんには分かってもらえないとマドリッドの修道院の神父様が話してくれました。
 
  それが5月のマリアさまの月になるとさらにヒートアップします。月の初めか終わりに聖母行列が行われます。その時に合わせて着るものが新調され、さながらファッションショーのようになってきていました。もちろん聖具もピカピカに磨かれ、ロザリオが飛ぶように売れると言うことで、多分家庭には家族の数のロザリオが毎年増えて行っていたのではないかと思います。それほどロザリオは唱えることは当たり前ですが、亡くなった時にそのロザリオが棺の中に入れてもらえるのだとイタリアでは言われていました。
 
  ロザリオの祈りがともかく大切にされているヨーロッパですが、家庭の中でのお年を召した方たちが、暇があるとぶつぶつ口を動かしながらロザリオを手に持って祈っている姿は、心に深く残る風景でした。私の母も私が幼いころから、悩みがある時、子どもが問題を起こしたときにはいつも祈っていました。農作業をする母のごつごつした手がロザリオを爪繰る様子が、自分でロザリオを唱えるときなぜか思い出してしまいます。晩年は特にいつも子どもたちのために祈っていたようです。
 
  もともとロザリオは、起源についていろいろな説が語られていますが、もともと修道生活から始まったものだという説があります。
 
  修道院の中で、歌隊修道士と労働修道士に分けられていた時代がありました。歌隊修道士と言うのは、司祭のことです。彼らは現在の司祭と同じく聖務日課で決められた祈りが、時間に従ってラテン語で唱えられていました。ところが労働修道士は、初めの頃は、文字が読めない人もいて、聖務日課の代わりにアベマリア何十回、主の祈り何十回、栄唱何十回という規則に従って毎日を送っていたようです。
 
  そのうちに工夫する人が現れ、指だけで数えて間違えてはいけないと言うことで、最初は細長い木に窪みを入れて、数えていたのかもしれません。私はそういう木をベネディクト会の修道院で展示されていたのを、イタリアで見た記憶があります。その後、あくまでも想像ですが、持ち運ぶのに不便だったからかもしれません。紐に結び目を造りそれを爪繰っていたのが、現在の形になっていったのかもしれません。
 
  余談ですが、私の母もマリアさま大好きの人でした。何を思ったのか「フランシスコ会の第3会」に入り、7連のロザリオをよく祈っていました。アシジの聖フランシスコの初期の会則には、司祭ではない修道士は、それぞれの聖務の代わりにアベマリアを70回唱えなさいと書いてあったようにも思います。それで母の7連のロザリオを見た時妙に納得したのかもしれません。
 
  そうやって発展してきたロザリオも、時代が変わると一般の人たちは、アクセサリーとしてロザリオを首にかけて歩くようになってきました。テレビのドラマでシスターの格好をした人が、堂々とそういう格好していましたし、イタリアでもそういう格好をして観光している人たちと出会いました。
 
  ロザリオは、今も昔と変わらぬ祈りの道具なのです。アクセサリーでもありません。聖母マリアさまに対して今必要な取次ぎを求める祈りの聖具なのです。大切にしていきたいものです。
 
校長 山口道晴
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