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校長先生のお話

「ヨハネの黙示録について考える」
2012-02-06
 生徒たちに宗教の授業を行うと言うことは、自分も宗教について学ぶと言うことです。悩まないわけではありません。生徒達にどこまで深く、あるいは詳しくキリスト教について教えることができるのだろうかと考えるのです。それでいつも適当(まさしく顔を見ながら理解しているかどうかを判断しながら)教えていた時期があったようです。今考えると、理由はさしたるものがあったのではありません。ただそのように思い込んでいただけなのです。あるいは「生徒には、分かりもしないのだからそこまで教える必要はない」と言う思い上がりの心があったのかもしれません。この「黙示録」については、かなり難しいことも語ったと思います。 
 ちょうど4年前の秋に、京都教区で「聖書研究」を信徒の皆さんと行うと言う企画がありました。またその年は「黙示録について」と言うテーマで行われることになっておりました。どういう訳か私が「黙示録」の解説者に選ばれ、奈良教会で講話をさせていただきました。黙示録について全くの門外漢であったにも拘わらず、神さまがお選らびになられたことで、全く自信も何もなかったのに引き受けざるをえませんでした。勉強しようと思って本を探すのですが、数冊の本をむさぼり読みながらその箇所の説明を考えました。
  振り返ると、まったく説明になっていなかったように思います。と言うのも全体の流れや構図、具体的な象徴、数字について理解していたかと言うとしていなかったからです。
 
  今あらためて「黙示録」について考えているうちに、『アポカリュプス』というギリシア語は、「隠されたものが明らかにされることである」と言う意味が説明されなければならないことなどが分かってきたのです。
「隠されたものとは何か」というと、多くの人たちが考えるのは「終末・世の終わり」です。どのようにこの世の終わりがくるのだろうかと言う答えを見つけようとして、この黙示録を読むのです。
  つい先だってもインカ帝国マヤ文明の太陽カレンダーが終わると言うことで、この世界も終わるのだと言って世界中で騒いでいたように思います。ノストラダムスの予言やファチマ第3の予言等、色んな予言が口にされ世の終わりが来ても自分だけは助かりたいと思っているようです。
従っていつどのような世界の終わりがくるのかという観点でこの黙示録を読む人が多いのではないかと思います。それももちろん描かれているのですが、全体の構成を考える時、あるいは文学的背景、歴史的な背景を考える時、そればかりでもないことに気が付きます。
  やはり、主体は神にあります。黙示録の世界が神と人間の関わり合いの中で、神の許しによって多くの苦難・苦しみが与えられるのです。(黙示録・7つの封印、5章~6章参照、7つのラッパを吹く天使7章~8章参照)。
  たとえば7という数字に秘められた意味は、7と言う数字がユダヤ教において神聖な数であり、神を示す数字でもあることが書かれていたりするのです。「私は、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと7つの金の燭台がみえ、」(ヨハネ黙示録1章12節参照)これは、7つの独立した燭台と言う意味ではなく現在もイスラエルの街の土産物屋さんで見ることが出来る7本の蝋燭がついた燭台のことです。
  7という数字が持つ意味と同時に悪魔(悪魔的な支配力・権力・武力をもってこの地上を支配する人間)を示す数もあります。第2次世界大戦中には、日本の東条英機やイタリアのムッソリーニ・それにドイツのヒトラーが名前ではなくその数字で表されたと言われています。
「ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるか考えるがよい。数字は人間を指している。そして数字は六百六十六である」(黙示録13章18節参照)
 
  このように黙示録の中には至る所に動物・数・さまざまな出来事をシンボリックされたものが散りばめられています。
 
  この黙示録は、神が許可を与えた天使によって様々な災い、不幸が人間にもたらされています。神の御手の中で様々な試練が与えられていることに注意すべきです。
  つまり、この試練を通して人間は浄められていくのです。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。」(黙示録7章14b~15a参照)確かに世の終わりによって試練を耐えた者は神の下に集うとも読めます。でもそれだけでしょうか。この黙示録が書かれた時代はどういう時代だったのでしょうか。
 
  この黙示録が出来たのは紀元98年頃のことだと言われています。ローマ皇帝ドミトゥリアヌスがキリスト者を迫害していた時代にこの本が書かれたことを考える時、多くの人々が各地で迫害され殺され、路傍に捨てられていたことを思い起こす必要があります。多くのキリスト者にとってこの迫害の苦しみの意味を知りたかったに違いないと思います。
  まず神がこの試練を与えられること。その前提として神がその苦しみを与えることをヨハネに見せています(黙示録5章1節~14節参照)。すべては神の手の内にあり、苦しみも神が与える試練です。即ちその苦しみを通して神の小羊の救いに預かれることが分かります。
 
  しかし、直接悪魔の化身としての皇帝を名指しすることができません。なぜならさらに大きな災いがもたらされるからです。だから666という数字を使うし、神の存在を7本のローソク台で表現しようとするのです。今もイスラエルにいくと7本のローソクが小さいものから大きなものまで、土産物屋さんに並んでいます。それが神様のシンボルであるとは誰も気がつかないのです。色々なシンボルで神がこの迫害の苦しみを与え、その苦しみを乗り越えた者が神の救いに与ることを読む人に語りたかったのではないかと考えています。
 
校長 山口道晴
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