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校長先生のお話

クリスマスによせて
2013-12-02
  そろそろクリスマスの季節です。クリスマスと言えば「イエス・キリストのお誕生日」であると言うことを皆の前で宣言しなければならない日なのです。
 去年の幼稚園のクリスマス会の場面を思い出します。最初に神の救いの歴史が子どもたちの口によって語られ、旧約から予言されていたそのイエス・キリストの誕生が劇として始まります。子どもたちが演じると言葉には表せない温かいキリストの誕生を感じます。
  もともと、キリスト教はイエスの受難と死と復活の信仰から始まっていきます。聖パウロがローマ帝国内の街々を巡り最後にローマで殉教していますが、彼が伝えたかった福音(evangelion)は「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは、十字架に付けられたキリストを述べ伝えています」(Ⅰコリント書1章の22節~23節参照)と言っている通りです。
  いつ頃からでしょうか、神の御子イエスがこの地上にお生まれになった時のことを考えるようになったのは。
  4つの福音書の中でルカ福音書とマタイ福音書だけがキリストの誕生に触れていますが、最初に執筆されたマルコによる福音書には、その記述がないことに違和感を覚えます。これはあくまでも私の想像でしかありませんが、マルコ福音書の時には、それほど重要ではなかったのかもしれないということです。
  つまり、マルコ福音書の編集者にとって重要なことは、イエスの公生活の中でのお話や立居振舞、奇跡物語、十字架の苦しみと死と復活が中心であり、重要であったのです。イエスの誕生の話は、その時点ではあまり問題にはなっていなかったように思うのです。
  ところがルカによる福音書は、正確な記録者として客観的な、いつどこでイエスは生まれたのかと言う正確な記録を残すためにそのことを調べたのだと思います。ルカ福音書のお蔭で、イエスの誕生からその受難と十字架上での死までが歴史の事実として残っていったのですから、すばらしい仕事を福音書として残したのです。ですが幼子イエスの誕生の日を特定できる記述は、ルカ福音書にも描かれてはいないことは忘れてはならないことです。
 
  プレゼピオ(キリストの降誕を再現したもの、馬小屋)の起源は、アシジの聖フランシスコが初めて作ったものであると言われています。12世紀の終わりには作られたことが分かります。今もアシジには最初に作られたものが残っていますが、季節がいつであったかは明確ではなかったようです。
  ですが、どうも12月25日と言う日が定められたのは、残された資料によると「降誕を記念する祭日」として最初は位置づけられたものであり明確に救い主イエスの誕生日として祝われていないことに注目すべきかもしれません。誕生の記念であって、誕生日と言っている訳ではないのです。
  イエス・キリストが誕生した日がいつであるのかについては、キリスト教が誕生してからずっと様々な説があったのです。例えば3世紀の初め頃には、アレクサンドリアの聖クレメンスは、5月20日ではないかと推測しています。
しかし、西方教会は、降誕祭とは別に1月6日に「公現祭」(全世界に救い主である幼子イエスが現わされた日)を祝わっていました。ここで有名な3人の博士が贈り物をもってイエスのもとを訪ねてくるのです。そこから推量してクリスマスを12月25日に決めたのではないかと推測する向きもあります。
  また、もっとも有力な説は、ミトラ教(太陽神ミトラスを主神とする密儀宗教である。一世紀から五世紀にかけてローマ帝国内で最大の隆盛を見せています。12月25日には、その不敗の太陽神の誕生日を祭っていたと言われています。)の冬至を大々的に祝う習慣がありましたが、その祭りはミトラス神が再び生まれるというお祭りでした。その祭りを転用してクリスマスの祝いに変えたという説が一番可能性が高いようだと支持する神学者が多数いるようです。

  クリスマスは、大きな宗教的な意味もありますが、むしろ現代に至っては商業主義の代名詞にもなっています。しかし、クリスマスはもともと旧約の予言のように自分の子をこの世にお遣わしになったほど神が人類を愛されていたことを示す出来事として聖書では語られています。
  クリスマスの大イベントを最初に目撃したのは、王様でもなく、金持ちでもなく、野原で羊の番をしていた貧しい羊飼いたちでした。そして生まれた神の子イエスもまた大きな宿屋ではなく、王宮でもなく牛や馬がいる馬小屋であり、その飼い葉槽の中で生まれたのです。それこそ謙遜の極み、神が謙遜な者たちの中でしか働かないことが理解できる出来事でした。
  別の言い方をすれば、貧しさや、苦しみの中にいる人々の希望としてのクリスマスなのです。それは、神の前に謙遜で、すべてを神の御手のうちに委ねて、神の教えに忠実な人は、当時イスラエルの貧しい人や苦しんでいる人たちでもあったからです。
  心の真ん中に三位一体の神をおかずに自我や偶像を置いている人にとっては、このクリスマスは自己満足やこの世の幸せだけを求めて商業主義に身を委ね、自分だけのケーキ、自分と親しい人たちだけへのプレゼント、クリスマスパーティーになるような気がします。そこには困っている小さくされた人に対する思いがないからです。
  謙虚さとは形の上だけの謙譲ではなく、心を貧しくして心に空きを作り、そこに貧しい人や苦しんでいる人、悩んでいる人、悲しんでいる人を思いやる心を持った人のことを指しているのではないかと思います。
  本物のクリスマスを心静かに迎えたいものだと思います。
 
校長 山口道晴
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