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校長先生のお話

マリアさまについて
2013-05-30
 今年もまたマリアさまの月5月がやってきました。聖書には変わらずマリアさまの記事があります。ヨハネの福音書の中には「カナの婚宴」というお話の中にマリアさまの姿が出てきます。
  マリアさまの姿が出てくるのですが、興味本位にだけこの箇所を読みますと、マリアさまの姿がぼやけてきます。むしろ華々しいイエスの奇跡物語が浮かび上がります。というのもマリアさまの生き方や、考え方がそこに見られることに目が行かないからです。
  ヨハネ福音書の中にだけ描かれた「カナの婚宴」の箇所ですが、マリアさまの困っている人に対する「配慮」と言う言葉よりさらに深いように思われる「慮る」(おもんばかる)心は、自分の方ばかり見ている人にとっては決してわからない世界のことかもしれません。
  周囲にいつも目配りし、いろんな情報に気が付き、出しているサインを読み解く力、マリアさまは、いつも起こるすべての出来事を心に止めていた人でもありました。心理学者のように訓練された人ではなかったけれど、起こる出来事に深く思いを凝らして、物事の本質をつかんでいくことが出来るようになっていたのだと思います。
  だから「Women for others」という言葉の奥に実に深いものがあることに気が付きます。その実践は、毎日練習しなければならないものが含まれているのです。
  別の言い方をすると「Women for others」と言う言葉を聞いたから、明日から「他者のために生きる女性となれる」というようなことではないのです。毎日、様々な出来事と出会います。出会った出来事の大半を見過ごしているのが私たちでしょう。自分と関係のあることだけに心を向けているのが私たちなのです。
  しかし、マリアさまは自分と関わりのあるという範疇ではなく、今見えているサインが困っている人というサインなのかどうか、この言葉の裏にあることは助けを求めているサインかどうかを敏感に感じ取れるように訓練してきたのではないでしょうか。
  だから、人に親切にできるかどうかという出来事の前に、どれだけ練習を繰り返し、極端なことを言えば、何度か「小さな親切大きなお世話」という失敗を繰り返しながら、本物の困った人を助けるという世界に広がってきたかという練習の時が私たちにあるかどうかが問われているのではないでしょうか。
  他者を慮ることは、大変なエネルギーを使うことでもあります。人間の習性として人のためにという実践を行うことには、別の助けが必要だといつも感じます。別の助けとは他の人の協力とかもありますが、本当に必要な助けはやはり神様からの助けであり、聖霊の助けであるように思います。
  マリアさまがキリストの昇天の後喜びをもっていつも神殿で弟子たちと共に祈っていたと「使徒言行録」にも記述がありますが、いつも祈る人であり、自分の力に過信することなく、自分が神の子イエスの母であるということに驕ることもなく、いつも謙虚に神様と自分の関係を祈りと言う手段をもって保ち続けたことは、非常に重要なことではないかと思うのです。
  「神の助けによって」という言葉は単に儀式の時にだけ使われる言葉ではないのです。マリアさまの生き方の中に「神の助けによって」しかなされない「受胎告知」と「カナの婚宴」があることに気が付くことが、マリア理解に大きな意味を与えるのであろうと思います。
  「マリアの月」がこれで終わったわけではないのです。この心は、学校だけでなく全世界のキリスト者特にカトリックの人々にマリアに倣う一年になっていくのであり、我々もそうしていかなければならないのです。
 
校長 山口道晴
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