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校長先生のお話

死者の月
2011-11-04
 11月になると、「死」について考え始めます。ヨーロッパでは10月を「黄昏の月(たそがれのつき)」11月をもって締めくくりの「死者の月」と考えているかのようです。
  12か月を1年としている私たちにとって、キリスト教の長い歴史の中にキリスト自身の一生が1年という年月をもって考えられていることに、大きな意味や、わかりやすいところもあるのだろうと思います。
  何がわかりやすいかと言えば、11月の終わりの「待降節」(すなわち救い主キリストが誕生するまでの旧約の長い歴史に合わせて12月25日までの4週間で身も心も準備をする期間)をおき、12月のクリスマスを迎えるにあたって「キリストの誕生」について深く思いをめぐらし、年明け(年が変わるということは、日本の元旦というほどの意味はないようです。花火を打ち上げ新春コンサートを見ながらクリスマス休暇を過ごすくらいの意味しかなかったように思います)の3月から4月にあるキリストの十字架と死と復活祭(復活祭までの日々を四旬節という)が終わると農家の人たちは種まきを行い、春の芽吹きの時、成長の時をもって私たち人間の成長についても考えていたようです。
  同時に5月の自然にとって一番命に満ちた月を、教会は「マリアさまの月」としておきます。人はマリアのように生き、考えることが一番人間らしいことであること教えています。そこには女性の素晴らしさ、豊かさを祝う昔からの習慣の中でマリアさまの生き方が見直され、すべての女性の模範としての在り方を告げています。
  日ざしと雨の恵みによって穀物は成長し、夏の日差しの中だけではなく9月のように少し涼しさが増してから収穫の時を迎えることは「壮年期」にある労働の実りだけでなく、人生における人間の成長の実りという意味を考えさせます。
  10月に「黄昏の時」を迎えますが、それは人間にとっての「老年期」を指し示しています。そして日が短くなる11月に「死」について考えさせるのは、人の一生が短く、いつ死に招かれるかわからないことを考えさせるためであると言えないでしょうか。
  長い間、農耕に関わってきている人類の歴史の中で、11月は、刈り入れも終わって地上に長い冬がやってきてすべてが死と隣り合わせの厳しい季節がやってくることをも思い起こさせてもらえます。
  死は人間にとって忌まわしいものであると同時に、宿命・運命であり避けられないものであることも認識してきたのではないでしょうか。ローマ帝国時代に活躍したセネカという人は「生きるということは、生涯をかけて学ぶべきことである。おそらくそれ以上に不思議に思われるであろうが、生涯をかけて学ぶべきことは死ぬことについてである」と言っています。
  また「死を考えることは、今をどのように生きるかを考えることである」という言葉通りでもあります。死を意識しはじめたとき私たちの生き方は変わらざるを得なくなります。
  私の母が亡くなった時、姉が母の残したものを見て、教えてくれました。「あれほど片付けがへただった人が、まだ痴呆の症状が出る前にと、父との思い出の品も、あってもしょうもない残りのものを全部片付けてしまっていた。残っていたものは真新しいものとわずかばかりの生活用品だった」と告げてくれました。
  生涯がいつまで続くかと考えることではではなく、いつ主に招かれても良いように準備をしておくことの大切さを、母が天に召されて以来感じています。本当に心を込めて生きることは、良い死を準備することであるということの大切さを深く悟るひと月でありたいものです。
 
校長 山口道晴
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