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校長先生のお話

パウロの生き方について 3
2011-09-14
 パウロについて語りながら、神の摂理の不思議さについて語ってきました。実はパウロにとって宣教せざるをえないようなキリストに捉えられた心、パウロの言葉によれば「キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2章20節)心を、神はエルサレムに住むユダヤ人に対しては八方塞がりの状態に置かれたのです。唯一、イスラエルの国に住んでいないディアスポラ(離散してイスラエル以外の地に住むユダヤ人)と呼ばれるユダヤ人たちに宣教をすることを促すのです。
  そこからパウロの異邦人への宣教が始まるのです。まさしく神の不思議な摂理です。そこからキリスト教の世界的な広がりが始まります。それはフランシスコ・ザビエルへとつながり、私たち日本の宣教へとつながっていくのですから、本当に神の摂理の深さを感じます。もしパウロが異邦人への宣教をしていなかったら歴史そのものが大きく変化していったのではないかと考えます。
  多くの教会を育てたパウロは、また多くの書簡を残しています。キリストのみ心に基づくキリスト者の生き方について、パウロはその手紙の中で具体的に述べています。その中心には「愛」があります。「愛は律法を全うするものです」(ローマ13章10節)「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ローマ5章22節)「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(Ⅰコリント8章1節)。もちろんこの『愛』は、隣人愛であり、人に対して奉仕する愛であることを忘れてはなりません。
  パウロが、キリストのうちに感じ取った愛は、「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められたときに、私たちのために死んで下さった。正しい者のために死ぬものはほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪びとであったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」(ローマ5章6~8節)パウロはこの愛に捉えられ、このキリストの愛がパウロを宣教への使命へと駆り立てるのです。(Ⅱコリント5章14節)
  福音を告げ知らせること、これもキリストの救いに預かった人たちすべての義務であり責任であると教会は教えますが、パウロは、もう一歩踏み込んで「キリストに駆り立てられてする行いです。キリストは、すべての人の救いのために死んで下さいました。ユダヤ人のためにも異邦人のためにも、強い人のためにも、弱い人のためにも死んで下さいました」(Ⅰコリント9章20~22節)と述べています。
  だから私は「何とかして何人でも救うために」(同上参照)福音を述べ伝えるのです。だからと言ってパウロにとってそれは何もキリスト者の義務だといいません。「そうせざるにはいられないこと」(Ⅰコリント9章16節)なのです。キリストが自分自身の中に働いておられ、その救いにあずかったことを感じた者は、この救いのあまりの素晴らしさに、それを一人でも多くの人に伝えたいと望むはずだからと言っています。
  私たちミッション・スクールの本質的なことがパウロによって語られています。勉強を教えることと大切な人間の生きかたを教えることは実は表裏一体のことなのです。 (完)

校長 山口道晴
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