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校長先生のお話

人生は苦瓜のようなもの
2007-07-01
 修道院で育てているニガウリ(ゴーヤ)が大きくなってきています。ゴーヤを見ると、初めて食べたときの印象を今でも思い出します。「まあ、なんと苦いものなのか!」

  先日この「ニガウリ」にまつわるあるお話を聞きました。舞台は中国。毎日のように参拝に行く二人の弟子がいて、あるとき先生に、「神様にお参りに行くのに、今日は何か持っていったほうがいいでしょうか」と尋ねると、「ニガウリを持っていきなさい」との答え。弟子たちは、先生に言われたとおりにニガウリを持って、神様に捧げ、一心に拝んでからそのニガウリを持って帰りました。 
  神殿に捧げ、聖なるものとなったニガウリを持ち帰ったものの、どうしていいかわからないので先生に尋ねました。すると先生は「そのニガウリを煮なさい」と言いました。何をおっしゃりたいのかがよくわからないまま、弟子たちはそれを煮て料理し、先生にも差し上げて一緒に食べました。 ニガウリを食べた弟子は、その苦さに顔をゆがめました。それを見ていた先生は、「神様に捧げて心から拝んだのに、このニガウリはやはりずいぶん苦いものだな」と言ったのです。 
 
  そして、弟子たちはすぐに悟ったのです。ニガウリはいくら神様に捧げて、何をしても、決して甘くはならないし、食べれば苦いものであるということを。つまり「苦いものは苦い」、「苦いものは煮ただけでは甘くはならない」「苦い中にも味わいがある」と受け止めることが大切だと弟子たちは気づいたのです。 
 

  「苦いものは苦い」というこの悟りは、私たちの人生にも置き換えることができるように思います。人生もニガウリのようなものです。人生は自分の思い通りにならないし、辛い嫌なことも起こります。けれどもそれをありのまま受け入れたときには、そこには何かが生まれてきます。辛い体験、苦しかった体験が、後で振り返ってみて自分を大きく育てる経験になっていることに気づきます。苦しさを乗り越えて人の痛みが分かるようになってきた、辛い仕事を共にした仲間と強い絆が生まれた・・・など、苦い味のすることにチャレンジするときにそこから得ることもたくさんあることでしょう。このように、苦い味だけではなく、人生ですっぱい味や塩辛い味のするもの・・・さまざまな味に向き合っていく中で、私の人生はだんだんと深さを増し、より豊かになっていくのではないでしょうか。

校長 朝廣絹子
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