校長先生のお話

死者の月によせて
2016-11-04
 追悼式を行いました。「死」という非日常的な事柄を、今笑いさざめきながら生きているこの現在の様子から考えさせることはたいへん難しいと感じます。
 しかし、生徒の中には親を突然失った生徒もいます。祖父母の死を体験した者もいます。非日常の体験を繰り返しながら「死」が何を意味するものかを捜し求めている先生や生徒がいることも確かなのです。
  私の「死」についての授業は、20年ほど前に広島の福祉専門学校で教え始めたときに、生徒の一人から「死について」の授業もありますか?という質問から始まりました。
  その時には、ひょんなことから読み始めた「生と死を考える」アルフォンソ・デーケン神父様と曽野綾子さんの共著であった本からすべてを学んでいたようにも思います。死が悲しければ悲しいほどその人がもっている亡くなった人に対する愛の深さが悲しみの深さであると講義していたようにも思います。
  そのとき園長であった幼稚園の子どもには、「いつでも会える」という絵本を見せていたことが懐かしく思い出されます。「たとえどんなに愛している人が死んでも心の中に生きてるんだよ」という事柄を言葉ではなく絵本の中で見せていたように思います。命の大切さといとおしさをどうにかして伝えたいと思っていたのです。蝉が死んで蟻がそれを運ぶところをまるで厳粛な儀式でも見守るように、ジッといつまでも眺めていた子どもたちの様子を懐かしく思います。
  日野原重明さんの「死をどう生きたか」という本も、医療関係者に向けて書かれているようで、実は私たちに向けて書かれているのだと日野原先生の穏やかな姿の中に、何度かテレビでのお話を聞いている中で理解できたようです。
  私自身にとって非常に「死」についての考え方が深まった3冊の本があります。【死の準備教育】というアルフォンソ・デーケン神父さまが看護学校での授業用としてまとめられた本です。第1巻が「死を教える」第2巻が「死を看取る」第3巻が「死を考える」というテーマで書かれているご本でした。
  3年ほど前に福山で講演に来られてお会いした時は、かなり弱られていましたが、とても懐かしくお会いしました。最初はわたしが誰であるのかが、お分かりではなかったようでしたが、お別れする段になって、「山口神父さん。ですよね」とおっしゃられたことが、なぜか心に温かく残っています。デーケン神父様については、初めての出会いから数年前の出会いまで懐かしい思い出が山ほどあります。
  初めて彼と出会ったときには、上智大学で「死の哲学」の授業をされていました。何度か聴講させてもらいながら、非常に明るい、笑いに満ちた授業だったことが記憶に残っています。日野原重明先生とともに「生と死を考える会」を立ち上げ日本のすべての市にその会を広げた功績は消えることはないと思います。
  死後の世界を臨死体験によって説明した「死んで私が体験したこと」という本があります。
  私たちは、死後どうなるのだろうという疑問が常にありますし、その質問に対して臨死体験をされた方の体験談を通して知ることができます。ベティー・イディーという方が体験したお話で、聖心会のシスターが訳されている本でした。はじめは、誰もが体験するような「臨死体験談」だと思って軽く読んでいたのですが、ある意味霊的な世界が存在し、実は生まれる前に私たちは、この世とは違うけれども生きていた世界があったという内容に惹かれました。その言ってることを信じるか信じないかではなく、自分の死後も、自分が自分であり続けられるというある種の安心感で満たされたことを思い出します。
  もちろん復活の考え方は、キリスト教の世界で厳然たるものがあります。私たちの信仰生活もそれに基づいたものです。キリストのように復活するためには、キリストのように他者のために生きる必要があるのです。弱い私たちだからこそ、祈りとミサ聖祭を通して神に強めていただかなければならないのです。ですがキリストを知らない人たちのために、キリストのように生きることの大切さを一つひとつ語らなければなりません。それがミッションスクールの「ミッション」という意味なのです。
  この一か月を、自分の親族、恩人、友人の中で亡くなった人たちのために祈りたいと思います。
 
校長 山口道晴