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校長先生のお話

この世の不条理・不合理について-あるいはパウロの味わった苦しみについて-
2016-06-09
  先日送られてきた書籍の中に創作童話の最優秀賞をもらった作品が掲載された一冊の本がありました。作者は佐藤優子さんという方です。
 
 題は「残されたカレーライス」という作品でした。東日本大震災の出来事を一人の少年が体験したことを童話にした作品です。内容は、家族で一緒に暮らしていた中で起こった大地震と津波で、少年は両親を一瞬に失ってしまいます。少年の心は悲しみによって深く閉ざされてしまいます。何日かたっておばあちゃんがその少年を避難所に探しに来ます。そして一緒に生活を始めますが、食べもせず、飲みもせずただ寝転がっているだけの日々でした。
 
  おばあちゃんは、何とかその少年に食事をとらせようとしますが、彼は頑なに物を口にすることを拒否します。ある日おばあちゃんの食事を勧める言葉に感情を爆発させてしまいます。「いらないって言ってるんだよ。ぼくはママのごはんが食べたいんだ!」と叫びます。そんなある日「一口でもいいから食べな。」といいながらおばあちゃんがカレーライスを用意してくれました。何度も勧められて少年は仕方なく一口そのカレーライスを口にします。
 
    『口にした途端に、涙が流れ出した。震災後初めて流れた涙だった。
    「このカレーライスはおばあちゃんがお母さんに教えたんだよ。」
    ぼくは涙も呑みながら、もう一口、口に含んだ。
    「お母さんもお父さんもみんな生きているんだよ、心の中で。」
    おばあちゃんが初めて見せた、泣き顔のような笑顔だった。
    「おばあちゃん、ごめんなさい。」
    ぼくは消えそうな声を出したあと、何もかもに打ち勝つように、大きな声を出して泣いた。』
    エレーナという女の子が教皇様にビデオレターを送りその中で「神様はどうしてこんな(日本の津波で何万人も死んだことを指して)ことをするのですか?」という質問をしたそうです。当時の教皇ベネディクト16世は、公開のテレビ番組の中で神学的な難しいことばではなく、「どうして神さまが、そんなことをされたのか私も分かりません。でもきっと神様の愛の計画の中で、良い計画の中で、それが偶然に起こったことではなかったことが、後でわかるのではないでしょうか」と返事をされたと聞いています。
 
  東日本大震災の次の年に生徒4人とシスターと私の6人で女川市の被災地でボランティアをさせていただきました。その時の印象が「一年も経つのだから、だいぶ復興しているに違いない」と思って行ったところ、海岸には津波で流された車両が山積になっていましたし、家族全部が亡くなっている家もありました。そういう家は、誰も整理をしないし、時が1年前から止まっているのだなと感じたものでした。私たちがボランティアに入った所は、そういう家でした。家族5人が亡くなり、まだ5歳の男の子の遺体が見つかっていないということで、捜索を兼ねて身の丈もあろうかと思う雑草を抜き、根切りをした記憶がありました。
 
  いつも私が口にする「生老病死」という4苦は苦しみの根源にあるものだと言われています。具体的な苦しみにどのような意味を見出すのでしょうか。生きるということが苦しみになっていることは、言わずもがなのことでしょう。老いの苦しみ悲しみ、嘆きもあることも私たちは知っています。病気の苦しみも、生きていればそれぞれにあるのでしょうが、どうしても個々的に「何故、今、このような時に病気にならなければならないのでしょうか」という疑問も残ります。そして死ということを考える時に、「自分の一生がこのような形で終わっていいものか」という死の受容ができないままに死んでいかなければならない現実もあります。
 
  同時に人の死、特に家族の死は、その人の心に深い傷を残します。まさしく初めに紹介した「童話」もそのことを表しているのです。生きているということが苦しみの場合が多々あります。この童話では、泣くことによって初めて心が浄化され、両親の死の現実を受け止めることで終わっています。
 
  しかし、私たちはそれで終わってはいけないのです。いつも言っている通り、死で私たちの命が終わるのではありません。キリストに対する復活の信仰が私たちに希望をもたらすのです。この地上で苦しみすらも、天国に宝を積み天国を準備させることになるのです。
  だから聖パウロは、テサロニケへの信徒のへの手紙の中で「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられたことです。霊の火を消してはいけません。神の言葉を軽んじてはなりません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」(5章16節から22節まで)。
 
  いつも喜べない人生の中で、「いつも喜んでいなさい」というパウロは、いい加減なことを言ってると思わないでほしいのです。いつも喜ぶのは天国に行くために、この世でどれほど苦しんでも天国に行くために苦しみを耐え忍ぶことが出来るのです。苦しみさえも喜びにかわる希望がそこにあるからなのです。
 
  聖パウロは、その生涯の中で「難船したことが3度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、町での難、荒れ野での難、海上での難に遭い苦労し、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(Ⅱコリント11章25~27参照)
 
  どういう苦難の中にあっても信仰の目標は、常に復活したキリストと共に復活することが希望だったのです。そのことを伝えたくて彼は、ローマで首を切られるまで多くの異邦人に、キリストの復活を伝えようとしたのでしょう。

校長 山口道晴
 
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