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校長先生のお話

人間の成長について
2016-03-04
 無事に卒業式を終えることが出来ました。今年で5年目を迎えて1年目から4年目のことを振り返ると、本当に穴があったら入りたいという思いが生まれます。まったく何もわからなかったこの4年間を振り返る時、全く分からなかった初年度より2年度、3年度、4年度、5年度という1年1年の積み重ねが、少しづつ何かを理解させ、心のどこかに全体を見る目を育ててきたように思います。
 
  卒業証書を手渡す時に生徒たちの緊張の眼差し、穏やかな笑み、様々な表情に気が付きました。毎年こんな表情で卒業証書を受け取っていたのだとあらためて気が付きました。これまでの自分がどれほど視野の狭い人間であったかに気付かされたときに、忍耐を持って私を支えて下さった多くの方々にあらためて感謝したく思っています。それにしてもまだまだ成長し続けなければならないのだと思っています。
 
  今年の卒業証書は、特別な証書紙に代えさせて頂きました。広島の平和公園に毎年たくさんの折鶴が日本中の修学旅行のために広島を訪れた学生や、海外の人たちからも送られてくるそうですが、年間にすると相当な数の折鶴が集まるようです。古いものから簡単に処分するという訳にもいかず、いろんなことを考えられていたそうです。その中に折鶴を処分するのではなく、新しい姿に代えて見たらどうだろうかと言う案が出て、実際に折鶴の一部を溶かして紙を作って見たそうです。値段は結構かかったそうですが、非常に良いものができたそうです。それを私たちは使うことに決めて今年初めて卒業証書として卒業生にお渡しいたしました。
 
  証書の裏に小さく折鶴の絵が印刷されています。もらった人たちがその用紙の意味を知り、平和について考えてもらえれば良いのではないかと思っています。平和と言うものが世界的にないがしろにされ、力には力を、核兵器には核兵器をというアジアの情勢にも不安が生まれています。世界の平和は、自国の利益だけを考えていては決して実現しないものであることを、知ってもらいたいと思う今日この頃です。
 
  マタイによる福音書の中に「平和を実現する人は幸いである。その人は神の子と呼ばれる。」(マタイ5章9節)という箇所があります。教会では真福八端(しんぷくはったん)と呼ばれる有名な個所です。考えてみると、人のために生きることも平和のために働くことも大変なエネルギーと覚悟と強い意志が必要になります。なぜなら自分の中だけでの平和ではなく、社会の平和のために働くことですから、その途中で倒れることがあっても構わないと言うくらいの覚悟が必要です。
 
  イエスご自身のお言葉ですが、イエス自身がその平和のために働かれ、生涯を平和をもたらすために十字架にすらかけられたのだと思います。ただ私たちの考える平和とは違います。社会の中で特に小さくされた人たち(困っている人や苦しんでいる人、貧困の中で喘いでいる人たち)のために病気を癒し、心に生きる勇気を持てるようなお話をされたのです。
 
  つまり、自分の平和ではなく、困っている人や苦しんでいる人、貧しさに喘ぐ人を助けて行くことが、世界の平和につながっていると言われているようです。神の子であるイエスが、平和のために働かれたのだから、平和のために働く人は、やはり「神の子」と呼ばれるのだとも考えることもできそうです。
 
  「いつも死ぬまで人間は学び続けなければならない。」と言われますが、平和のために自分が今どのように生きているのかを振り返れば、まだまだ全く足りないこと、全く不十分なことに気が付きます。それだけでなく、他のたくさんの事柄について学びが不完全であることに気がつくのです。その意味で学び続けることの大切さがあるのだと思います。「死ぬまで学び続ける」と言う言葉が決して大げさではなく、神様から与えられた生きている時間の中で今自分が何をなすべきかを考えて行動することが求められていると思います。
 
  そのような自分に気づかされた卒業式でした。もっともっと謙虚になって学ぶことの習慣をしっかり身に付けたいと思った一日でもありました。
 
校長 山口道晴
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