校長先生のお話

死について考えたこと
2015-11-02
  先日、東京で知り合いが亡くなりました。亡くなったかたの息子さんからの知らせでお葬式も全部終わってからの連絡でした。その方は私に「父は、最後まで苦しんで息を引き取りましたが、心は穏やかだったように思います。」という言葉をいただきました。
 
 実は、20数年前にその方の奥さんが亡くなられるのに、私は立ち合いました。奥さんは、40代の半ばで、子ども二人を残して亡くなられるということで、非常に苦しまれているように思いました。でも最後を看取りに病院に招かれ、病者の秘跡を執り行う時に苦しい息の下から言われた言葉を忘れられないのです。
 
  「私は、二人の幼い子どもを主人の手に託して旅立たねばなりません。非常に不安で、どうしてこういう運命になったのかと神様を呪い、恨みました。でも上野教会の神父様が言われた言葉で、死んでいく勇気をいただきました。」と言われるのです。黙って聞いていましたら「その神父様は、『人は必ず死ぬのですが、意味の無い死など一つもないのです。なぜなら、神様と私との関係の中で神様はいつも計らわれるからです。あなたの都合や私たち人間の都合で何かをお決めになるのではなく、神の深いご計画の中で働かれることを忘れてはなりません。』と言われて初めて、私たちの思いを越えて働かれるのが神でありすべてを神に委ねる練習が必要だったのです。」と言われて2日後の朝方亡くなられました。
 
  もしかしたら、私の何十倍も、旦那さんはお分かりだったのかもしれません。すべてが神様の御手の内にあり、私たちの思いを越えて働かれる神のみ旨の内にあることを奥さんが亡くなられた後、ずっと考えていたのではないでしょうか。そして、自らが亡くなる時も、神様のみ旨に誠実でありたくて日々練習されていたようにも思います。どんな苦しいときでも、孤独の中でもそれを神様のみ旨として受け止めようと祈っておられたのかもしれません。だからどんな苦しみの中でも「穏やか」だったのです。
 
  人の命は、儚くもありますが、しぶとく肉体から離れることを拒否します。まるで肉体と一つであり、離れて暮らすことなどあり得ないとでもおもっているようです。しかし、死ぬときその思いはすべて消えてしまいます。つまり私たちの思いの深さがどんなにあっても、神様がその命の火を消されるときが必ずやって来るのです。その主体はいつも神側なのです。どんなに死にたくないと思っても奪うのは神様なのです。どんなに辛くとも、どんなにこの社会に執着を残していても、その時が来たら神様に任せるしかないのです。
 
  そこで聖書の教えが私たちの心にようやく届くのです。私はときどき思います。ファリサイ人や律法学士を非難されるキリストの姿がありますが、読む私たちは、いつも他人ごとです。この世の執着にまみれたファリサイ派の人や律法学士のこの人々は、実は、私たちのことなのです。と平日の朝ミサのなかのオメリアでいつも言っている言葉です。神の名を借りて適当に都合よく生きている姿は、私たちの姿のような気がしてなりません。
 
  『だから目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなた方にはわからないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつ頃やって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だからあなたがたも用意していなさい、人の子は思いがけない時に来るからである。』(マタイ24章42節~44節参照)
 
  この箇所からもよく分かる通りに、自分の死がいつ来るのか分かっていれば準備をするのです。ですが何時いかなるときかが分からないのが我々人間の宿命なのです。つまり準備のしようがないということになるのでしょうか。いいえそうではないのです。キリストは「いつでもその時が来ても良いように準備をしておきなさい」と言われているのです。
 
  日々の生活の中で本当に準備をしていくとは、日々いつ死に招かれても良い練習をするということです。佐賀県の「葉隠」という武士の心構えを教えた書物の中に、日々どうところで、どんな危険が待ち構えているかを知り、日々死ぬ練習をしなさい。日に何度でも死を疑似体験しなさい。刀で切られたらどんな痛みなのだろうか、トラに襲われたらどんな苦しみなのだろうか等々。そうやって鍋島藩の武士たちは、死を恐れない武士たちであったと言われています。
 
  そのように、いつでも死を意識し日々を送るように勧めているのです。まず死を意識して、余計なものは捨てる、物に対する執着を捨て新しい物を手に入れないように努力する。祈りの習慣、神様にすべてを委ねる練習をしっかりと身に着け、信仰をしっかり持つ。持っている荷物を整理する。私の尊敬する司祭の最後は、机の上に一冊の聖書だけがおいてあり、後は何も持っていなかったという司祭のことがあこがれです。亡くなられた人たちを思い起こすひと月でありますように。
 
校長 山口道晴