校長先生のお話

死について考える
2014-11-04
 子規逝くや十七日の月明に (高浜虚子)
 数年前になりますが、NHKのBSで「坂の上の雲」という司馬遼太郎さんの作品のドラマを見ていた時に、俳人正岡子規が根岸の子規庵で亡くなった時に看取っていた虚子が詠んだ句であると知りました。なぜだかわかりませんが、教会でお葬式をさせていただくたびに、この句が心に浮かぶのです。
 
  人は生まれた瞬間に死に向かって歩んでいます。それが若いときの死もあれば、老いて後「死にたくなくなった」時に訪れる死もあります。人はそれを不運とか不幸とか言うのですがキリスト教の価値観は、それを運命とは呼ばず、「時」であると教えます。
 
  天の下のすべてのことには季節があり、すべての業には時がある。
  生まれるに時があり、死ぬに時がある。
  植えるに時があり、植えた物を抜くに時がある。
  殺すに時があり、癒すに時がある。
  こわすに時があり、建てるに時がある。
  泣くに時があり、笑うに時がある。(伝道の書3章1節~4節A参照)
 
  この箇所を読むとき、運があるとか運がないとかではなく、すべてが神様のみ旨の中で行われることがよく分かるのです。自分の力を越えた何かを認めずに生きることも可能ですが、自分の力を越えた神を信じて生きようとすれば与えられたすべての事柄に時があることを受け入れるしかないのです。
 
  日本の死生観とキリスト教の死生観の違いがあります。アルフォンソ・デーケン神父様の「生と死を考える」(春秋社)の中で、臨床心理学者であり上智大学の教授であった霜山徳治師の講演の記録があります。彼は、日本の風土がもたらす水平的死生観(現世と来世が同一平面上にある。例えば死んでも草葉の陰で見守る等の考え方)と仏教の死生観(もともとの仏教は、死んだら輪廻転生すると教えていますが、日本に来た仏教思想は7回生まれ変わって極楽か地獄に行くと教えています)について語っています。
 
  キリスト教の死生観は、全く上のものとは違うということでエリザべス・キュブラー・ロス(精神科医・カウンセラー)という、死を迎える人のカウンセリングを世界で初めて行った人を例に挙げています。「死に向かう人たちは、残された日々が人生の熟成期・完成期を迎えるのであって、その熟成し完成していくのを手伝ってあげなければならない。それがデス・カウンセリングである」と言っています。  
  死を宣告し、残された時間を成熟期・完成期としての大切な時期として濃密な時間を生きるべきだと語るのです。しかし、そのためには「死期を告知すること」が求められてきます。
 
  霜山先生は、日本の医療従事者の中に、死を告げることの不安や、精神的な未成熟があると言います。彼らの中には、キリスト教的復活の思想がないのですから当然と言えば言えるのです。しかし、そういう知識がなくともホスピス(最後を看取る病院)というものがあり、ペインクリニック(痛みを取る治療)を中心にして最期を看取る病院も今の日本では増えて来ています。
 
  しかし、明らかに元来のホスピスケアとは違うものになっているのです。「死後はどうなるか分からない、しかし、死期が近い人たちの体の苦しみだけは取ります。」という世界なのかもしれません。
 
  本来、キリスト教は、聖パウロが言うように「私は、十字架につけられたキリストを宣べ伝えているのです。」(Ⅰコリント1章23節)。キリストの苦しみと、死と復活から始まったキリスト教は、私たちに死後の復活を教えるのです。だから死期が伝えられたときに一瞬一瞬を最後の瞬間まで精一杯生きることを教える役割を、キュブラーロスは果たしたのです。
 
  人生のまとめとして、兄弟姉妹と、もし確執があれば和解し、親しい友との関係を正常化させ、心に残っている、あるいはずっと拘っていたことを最期にあたって少しでも体験させて旅立っていただくことが、大切なことなのです。
 
  私の母は、亡くなる数年も前から(父が亡くなってからかもしれませんが)部屋の整理をしていました。亡くなった時には新しい数枚の下着と何枚かの着替え以外には何も残してはいませんでした。子ども孝行だったと兄が言っていましたが、天に旅立つときに、後ろ髪をひかれるようなことがあってはならないと、母は、最後の生き方を私に教えてくれたのだろうと思っています。
 
  そのように、死を前にした人の生き方を、ただ「いつか治るよ。だから頑張っていこうね」と言う告知をしないやり方ではなく、死期が迫ったらそれなりに考えて、準備をしておく必要を感じます。それはキリストと共に復活するためです。一度しかない(とキリスト教は教えます)人生を悔いなく人のために生きられるようにするのも、人生を通して死ぬ直前まで天国を準備する必要があるのも、すべて死を乗り越えてキリストと復活するためなのだと思わずにはいられません。死についてはあまり考えたくない非日常の出来事ですが、一生を精一杯生きるためには、考えなければならない大切なことのように思います。
 
校長 山口道晴