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校長先生のお話

復活祭によせて
2014-04-12
 復活祭が来るたびに考えることが沢山あります。やはり浮かんでくるのは、聖パウロが残した言葉です。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」(Ⅰコリント1章22~23参照)
  十字架につけられてという言葉が意味するものは社会的に重要です。罪人としてそれも大罪人として処刑された人であるイエスをキリストとして宣教してきたのですから。
  社会的には大罪人として死んだイエスが、三日後に復活したという常識では説明できない出来事を体験した弟子たちがいたのです。聖パウロも復活したイエスに出会ったことが、彼自身の生き方を変えるものとして使徒言行録9章1~19において詳しく描かれています。
  彼は、これまで何度も述べたようにキリストを信じる者たちの迫害者でした。たくさんの信者を捕え拷問しそれを捨てさせようとしました。さらに彼自身は先祖からの伝承を守ろうとして人一倍熱心な者でした。
  ところが復活したキリストに出会ってから聖パウロは、キリストに心酔し、最初に述べたⅠコリントの言葉を口にするのです。復活したキリストの存在がなければキリスト教は成立しなかった宗教であると述べる宗教学者もいるのです。
  また12使徒の一人である聖トマスは、復活したイエスと出会ったと他の弟子たちから聞いたとき「あの方の手に釘の跡を見、この指をその釘跡に入れて見なければ、また、この手をその脇腹に入れて見なければ私は決して信じない」(ヨハネ福音書20章25節参照)。と言いますが、復活したイエスの姿を見た時に自分の言ったことの間違いに気が付きます。イエス・キリストは「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」(同上29節)と言われています。
  多分復活したキリストと出会ってトマスの心の中には、イエスの弟子であったことが間違いのないことだと確信したのです。殉教の死ではなかった聖ヨハネとイエスを裏切って自殺したイスカリオテのユダを除いて、残りの使徒たちは殉教(キリストの教えに殉じて命を捧げること)の道を選んだのです。
  聖書の世界においては特に新約聖書のどこを紐解いても、キリスト教が「復活したキリストを伝える宗教であること」が分かります。その信仰の上に立って生き方、苦しみ方を教えてくれる宗教であり、全世界の人々に伝えなければならない宗教であると弟子たちが確信していたのだとあらためて思います。
  復活祭において、ゆで卵の殻の部分に彩色してミサに参加した人たちに配ります。それを食べながら、どうしたら固い自我の殻を破って、キリストと共に復活できるのだろうかと考えます。「見ないで信じる者は幸いである」というイエスの言葉を、日常生活の中で考えて見ることも大切なことではないかと、ふと考えました。
  四旬節の終わりにあたって、喜びと希望に満ちた復活祭となるように祈りたいと思います。
 
校長 山口道晴
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