校長先生のお話

残りの者(シェーオル)について考える
2014-01-09
 新年あけましておめでとうございます。本年もまたよろしくお願いいたします。私のブログも早3年目を終えようとしています。面白くもないブログですがこれからも精一杯続けて行きたいと考えております。どうか本年もまたよろしくお願いいたします。
 
  「イスラエルの残りの者」という言葉が、昔からずっと気になっておりました。残りの者という発想がどこから生まれてくるのかがよくわからなかったのだと思います。例えば旧約聖書の中には、イザヤ書10章20節、46章3節、エレミア書6章9節、31章7節、エゼキエル書9章8節、アモス書5章15節、ミカ書2章12節等々に出てきます。
 
  もともと残りの者という考え方は、「神の救いのご計画」の中で語られることであり、そうでなければこの言葉の意味を深く理解することはできないのではないかと考えてしまいます。
  神は、自ら創造された人間(アダムとエワ)が、悪魔の誘いによって神の掟を破ること(原罪と言われる)によって楽園から追われ(失楽園)、苦労して地を耕したり、苦労して子どもを育てたりしなければならないようになったと「創世記」の中で描かれます。
  つまり、我々人間は、それ以来この地上の苦しみや苦悩に満ちた生活を送らねばならなくなったのです。すべて、人間は原罪によって不完全な、弱さに満ちたものになったのです。不合理で不条理な人生を送るようになったと言われています。例えば、一生続く幸せもなければ、老病死生の苦しみは、人生を送るものにはすべて多少の違いはあっても、避けることが出来ない現実です。
 
  ですが神は、いつか必ずすべての者に救いをもたらされようと考えられていたのです。ただその救いとは何かと言う議論があります。
  イスラエル人にとっては、その救いは長寿であり、子どもが多いことであり、この世の自分の家の富が豊かになることでした。
 
  ところが出エジプト記によれば、神の力によってエジプトを出たイスラエルの民は、「唯一の神」の存在によって40年もの間シナイ半島の砂漠を彷徨いながら、神の存在と力によって、主なる神なしでは生きられないことを体験によって教えられるのです。「唯一の神」だけが他の神の存在を偶像とするものであり、アブラハム・イザアク・ヤコブの神以外には神がいないことを学ぶのです。
 
  ある聖書学者によれば、旧約聖書と言うものは「唯一の神」が人類と出会うために神がどのように働きかけ、イスラエルの民がどのように信じるようになったかと言う2000年の物語であるとも言っています。そのような出会いの歴史の中でまず神は、イスラエルの民を選ばれたのです。
 
  残念なことに、唯一の神から選ばれたイスラエルの民は、自分たちだけが選ばれた選民であるという思い込みによって、神の壮大なご計画を狭い小さなイスラエルの民だけの救いにしてしまうのです。つまりイスラエルだけが神の救いに与るものと考えていたのです。
  ところがそのように考えて、「唯一の神」を信じ、神が与えて下さった「掟」(神の律法)を誠実に守ろうとする人々と、自己中心的な心に従って自分の都合の良いように掟を作り変えていく人が出てきます。後者をイエス・キリストは厳しく批判します。
 
「なぜあなたたちは、自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は『父と、母を敬え』と言い、『父または母をののしるものは死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのにあなたたちは言っている。『父または母に向かって「あなたに差し上げるべきものは神への供え物にする」と言う者は、父、母を敬わなくともよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に予言したものだ。『この民は、口先で私を敬うが、その心は私から遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、空しく私をあがめている』」
(マタイ15章1節から9節参照)
 
  狭い意味でイスラエルの救いを考えていた人でも誠実に唯一の神と神様が与えてくれた教えに忠実であろうとする人々のことを「残りの者」として表現したのではないかと思うのです。(マリアやヨゼフ、洗礼者ヨハネとその家族が聖書には出てきます。神の救いを信じて神以外の者を心に置くことを潔しとしなかった人たちの系譜がそこにはあります)。
 
  別の言い方をすれば、唯一の神を受け入れ、認め、私たちの人生が、すべて神のみ旨の中にあることを感じ、体験した人は、神に対する深い信仰を育てているのです。神の教えに誠実であろうと考え、この世の不完全さや弱さとの戦いに挑みながら、神の教えのなかで誠実に生きようとしている人たちの存在があります。
 
  一方では、自分にとって都合のいい生き方、人生を楽しく、面倒くさいことには一切興味を抱かない人もいます。そういう人たちの価値観は、自分と言う存在を中心に考え、嫌なことや辛いことを「不幸」と考えてしまう人のことであり、多くの人たちの価値観にそれを見ることが出来ます。
 
  私自身の中にもそれを使い分けている自分を感じる時があります。徹底していない自分の価値観を、神の価値観に向き直し、実際の生活の中でこの「神に対する残りの者」になることが今求められているのではないかと言う思いが常にあるのです。
 
  カトリック教会が言う「回心」という言葉もそこに繋がっているように思います。いつでもどこでも、どんな時でも、どのような年齢になっても神の教えに忠実であろうとする心を、育てていかなければならないのだと思います。
 
  今、考えていることを長々と書いてしまいました。

校長 山口道晴