校長先生のお話

夏に思うこと
2012-09-05
 1年目の夏に、林間学校に出席させてもらいましたが、今年もまた林間学校に参加させていただきました。去年は生徒たちとずっと一緒だったわけでもありませんでした。山も一緒には登りませんでした。今年は生徒たちと一緒に山に登り、一緒に過ごす時間も多かったように思います。
  自分の年を忘れてと言う代わりに、自分が年であることをいやと言うほど知った林間学校でした。生徒たちの真面目な態度や穏やかな物言いにさすが暁の星の生徒だなといろんな場面で思わされたものでした。
  終わって一日おいて東京で新任(3年目までの)カトリック校長研修会が行われ、それに参加しました。一泊二日の研修でしたが内容は非常に濃いものがありました。本当に自分が不完全な、いかにふさわしくない校長かと言うことをあらためて感じさせられた二日間でした。
  そして、広島にとって大切な67回目の原爆記念日である8月6日の前日の夜。私は、幟町にある平和記念聖堂で平和祈願ミサに預かりました。広島を含む、全国からの信者さんと多数の司祭・司教さまが参加され荘厳なミサが執り行われました。
  私は、東京から広島に来て19年近くが過ぎています。しかし、何度も平和公園を訪れ、どれだけの被爆体験を聞き、どれだけ長崎・広島の原爆投下の本を読んでも、原爆の怖さ、放射能の恐怖が今一つ深く理解できずにいたように思います。
  広島の幼稚園で副園長として働いていた時に、園児の祖母に当る人で穏やかなそして笑顔がとっても素敵な方とお話しする機会がありました。何度かお話しするうちにすっかり親しくなっていき、私が尾道に転勤になっても夏と冬のあいさつを欠かされることがない人でした。
  尾道に来て何度目かの原爆記念日の日の「原爆体験証言」を聞くともなしに他の仕事をしながら聞いていたら、聞き覚えた声が聞こえてきました。慌てて椅子に座り直してテレビをみると園児の祖母と言われていた方が、「証言」をされていたのです。
  原爆の爆発地点から数キロの場所で被爆されていたということでした。自分が生き残ったのが奇跡みたいなもので、残りの家族は骨も残さず一瞬にして蒸発したみたいだったと証言されていたことを聞いたとき、はじめて大量殺りくがどんなふうに行われたかを体感したように思いました。生き残った人より死んでいった人の方が多かったのだということを実感したのです。
  多くの人が、一瞬にしてそれまでの生活を力ずくで奪われたのだということが、胸に沁みてきました。一度も自分が被爆者だということも言われず、穏やかにいつも微笑んでいらした方の経験の中に、言い難い苦しみの体験があったのだと知った瞬間でした。
  林間学校に行く前の7月15日~17日まで宮城県の南三陸の米川に6年生3人に5年生が2人。それにシスターも入れて計6人でボランティアに出かけました。私は、仕事の関係で土曜日にしか出発できませんでした。
  一人で新幹線に乗り、仙台駅まで真っ暗な夜を走り、辿りついたときには、もう日付けが変わる時でした。次の日早く一緒に行って下さる仙台市役所の職員の人の車に乗せてもらい4時間近くのドライブをさせてもらいながら、色々な話を聞かせていただきました。
  流された家の片付けを行ったときに、最初に草を抜きそれから瓦礫を片付けるときに、土の中からセーターや子どものおもちゃが出てきたのを見て、そこには、確かに人間の生活があったことを強く感じました。見た感じはただ家がなくなって土台だけが残っているように見えたものが、そこで人が亡くなり、すべてが失われたのだと実感したのです。
  本当に、素晴らしい体験の夏休みであったと今振り返っています。
 
校長 山口道晴