校長先生のお話

復活の信仰とパウロ
2012-04-21
 4月8日が「復活祭」でした。私は、復活について考えるときに、どうしてもパウロのついて考えざるを得ません。また「パウロ」ですか?という声が聞こえてきそうですが、またパウロなのです。
イエスの復活について考えるとき、パウロは、私たちに多くのことを教えてくれるようにも思います。
パウロは言っています「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなた方のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか?死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(Ⅰコリント15章12節~14節参照)。
  一般的に考えて見ても、死者の復活の証明を行うことは大変に難しいことです。この世的な価値観からすれば、そんなややこしいことを言うよりも「復活などない」と言えれば楽なのだと思います。
  しかし、それでは私たちの信仰も生き方も空しいものにするのです。だから、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は、知恵を求めます。私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」(Ⅰコリント 1章22節~23節)。
  復活したキリストという価値観は、人の知恵・価値観とは違う考えであることをパウロは「世は自分の知恵で神を知ることはできませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって、信じるものを救おうと、お考えになったのです」(Ⅰコリント1章21節参照)。
  そして、「愚かな」という言葉を使いながら「神の愚かさは、人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(同掲 25節)と言うように神の価値観・知恵の在り方を人間の知恵より価値観よりも優れたものであると述べているのです。
  人の目からは、愚かに見えることであっても、神の知恵の中ではより輝くのです。愚かに見え、力もないように思われ、惨めな存在であるかのように思われていても神の知恵・神の力によって別の輝きを示すのです。惨めで、愚かに見える「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えることの凄味を感じます。
  フランシスコ・ザビエルもまた十字架につけられたキリストを宣べ伝えるために、難破したり、病気で死んだりする危険を顧みず、日本まで宣教に来たことを考えるとき彼の信仰の価値観は、人間的な価値観からは、図り知ることができないものだったと思います。人間の知恵は、そのことを抜きにしてスペインの領土拡大政策という動機の上に宣教活動があったように考え、言ってますが、動機は一つ「十字架につけられたキリスト」をのべ伝えるということに対する情熱だけだったと思います。
  つまり,人間の知恵では理解できないことも、神の知恵においては理解できることなのかもしれません。このことは大切な人間の在り方と関わって来るようです。
  つまり、私たち人間は、この世の価値観では、行き過ぎた学歴主義、権力者が時折見せる上からの目線、弱者、困っている人たちに対する高慢さは、神の価値観からすれば愚かな人間の知恵なのかもしれません。謙虚な神の愚かさの中に生きたいと強く願います。
 
校長 山口道晴