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校長先生のお話

クリスマスの正しい迎え方
2011-12-17
   今回のテーマは、多くの人がクリスマスを迎えながら、クリスマスの心を知らずにお祝いしているのではないかという危惧のもとにつけてみました。
 X’masという言葉がまず何にでも付いてくる季節なのですが、もともとクリスマスとは、Christ-masという表現から、Xρΐστΰς(クリストゥス)という同じキリストを表すギリシャ語の、XをとってX’masとして使われていることをいつの間にかすっかり忘れられてしまったようです。
   Christ-masとはもともと「キリストのミサ」という意味があり、この世に救い主キリストが誕生したことを祝うミサではありますが、同時に私たちの心の中にもキリストが誕生しますようにという思いも込められているミサなのです。
  もともとミサは、聖書にある「最後の晩餐」の中で制定されたものです。また、祈りの最高の形であると言われています。個人的な願いはもとより、今世界が求めていること。「平和」や「貧困からの解放」「子どもたちの幸せ」等々を求めて祈るのです。
  もちろん今年たくさんの犠牲者と被災者を出した、三月十一日の東北地方大震災のために祈らなければならないことは、私たちにとって当然のことです。
   その願いの上に立ってこの一年間にいただいたお恵みに感謝し、謙虚に足りなかったことを認めて生きる心を、このクリスマス前の四週間に育てるのです。ただ心を見つめるだけでなく、具体的に何か犠牲(ボランティア活動、献金、家庭訪問、施設訪問等)を捧げることを通して、救い主が私たちの中に生まれてくるように準備するのです。
 
  『クリスマス・プレゼント』
 
   もともと、聖書のマタイの2章1節~12節のところに書いてある「三人の博士の訪問」の時に三人の博士が幼子イエスに捧げた「黄金・乳香・没薬」のプレゼントが、世界で最初のクリスマス・プレゼントだと言われます。
   もともともらうことが大切なことなのではなく、この世に「人としてどのように生きることが良いことなのかを教えてくださった神の子イエス」が来てくださったことに対しての感謝としてプレゼントを捧げたのです。
   感謝する心を長い旅の苦労と共に見える形で表現したのです。私たちも、この一年間をお父さんとお母さんに感謝する心を表すことが本当のクリスマスプレゼントになるのでしょう。もらって当たり前、もらうのが当然だという姿勢や高価なものや高価なプレゼントだけがプレゼントという考え方の中には「感謝する」という心はどこにも見当たらないような気がします。
 
  『クリスマス・パーティー』
 
   イタリアで暮らしていた時に、毎年クリスマスをロッツォという北イタリアの標高一二〇〇mくらいの高さの山の村で過ごしましたが、クリスマス休暇の前の人口は三百人くらいで、クリスマス休暇の時には三千人くらいに膨れ上がります。出稼ぎ先から故郷に帰ってくるからです。
   二十五日のクリスマス・ミサが終わった後、ある家庭に招待され食事をご馳走になりました。家族が本当に喜びあい、その喜びを寄留者である私にも分かち合ってくれたのです。
   親しくなるにつれて唄や踊りまでも披露してくれたことが懐かしく思われます。
   一度その家族にきいてみたことがありました「なぜ、家族がようやく全員そろったのにわたしのような外国人をパーティーに呼ぶのですか?」と。
   「それは、クリスマスだから」と出稼ぎに行っていたご主人が答えました。「私も出稼ぎに外国に行っていて、家族のことをいつも考えている。だけど、クリスマスは特別な日で神様がこの世に救いをもたらした日であり、その喜びは、家族だけのものじゃない。この世で苦しんでいる人、悲しんでいる人、寄留者や寂しい思いをして、心の闇の中に生きている人に希望の光を与える日でもある。だから毎年クリスマスには家族以外の人を招待するのです」と自然に返答されました。互いに喜びを分かち合う心が散りばめられているようでした。
 
『クリスマスケーキ』
 
   ヨーロッパには、クリスマスケーキという概念はありませんでした。しかし、最近では特別にそういうものを売り出すお菓子屋さんも出てきているようです。
   もともとクリスマスシーズンになると朝食の時に食べる、パンの代わりにスポンジケーキの上に細かな白砂糖がかかっているものを食べる習慣がありました。
   その起源はわかりませんが、キリストが十字架にかかって、私たちのために死んで下さったように、イエスは私たちのために命を削ってくださったのです。
   私たちも身を削って人のために生きることを思い起こすために一つのケーキを分け合って食べるのです。そういう意味で互いに次のクリスマスまでキリストの模範に従って人のために生きていこうということを確認するようです。
   
 このように考えてみますと、まさしく日本は商業主義的なクリスマスで彩られていることに気が付かされるのです。クリスマスの正しい迎え方の中には、自ら謙虚に神のご計画に感謝し、キリストの誕生を祝いながらキリストにならって生きて行こうと、決意することが心にキリストを生まれさせることなのだと思います。良いクリスマスをお迎えください。
 
校長 山口道晴
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