校長先生のお話

わたしの道しるべ
2011-04-13
  先日、ある新聞記者のインタビューに答えていて、ふと母のことを思い出した。母は、今から10年ほど前に朝早くに肺炎に罹り、その日の夜中12時に亡くなった。92歳であった。喪主の兄が寂しそうに「子ども孝行な人だった」と誰にともなく言っていた言葉が耳に残っている。
 私の家庭は、父の父母が隠れキリシタンで有名な出津(しっつ)黒崎の出身であり、母の両親は平戸の紐差(ひもさし)教会の草創期のころの最初の信者であったと聞いている。私の父と母は、二人とも連れ合いを早くに亡くし、長崎の佐世保にあった三浦町教会で出会い結婚している。戦争(太平洋戦争)中の話である。
  根っからの信者で、毎週日曜日には、他のどんな行事に参加するより最高の晴れ着を着せられて教会に行っていたことを懐かしく思い出す。そんな父と母と小学6年生まで一緒に暮らした。その後は、寮生活で休みの時にしか一緒に生活をしていない。
  そんな12歳までの両親との思い出の中で、ひときわ輝く思い出がある。小学校2年か3年生の春休みか、週末の土曜日の出来事であったようなあいまいな記憶でしかない。だが、起こったことは鮮明に覚えている。
  前の日に駐在所の警察官が家にやってきて何かを話して帰っていった。父が帰ってきてから夕食後に二人で話をしていた。かなり真剣に小さな声で話していたことを微かながら覚えている。子どもたちには何も話してはくれなかった。
  次の日は、どしゃぶりの雨だった。母が私に向かって「今日のお昼にお客さんがたくさん来るから、そしてびしょ濡れになっているから、タオルの出すのを手伝っておくれ」と言った。母が洗濯して干していたタオルやまだビニールに入っているタオルを大量に出し始め、ビニールをはずしてかごの中に入れる手伝いをした。
  10時過ぎに家の横を通りすぎる人たちの気配がした。しばらくすると金属が石にあたる音や、スコップで土を掘る音、命令する声がはっきりと聞こえてきた。
母の顔を見ると「昨日おとといの雨で、お墓の周りにあった石垣が崩れ、そこからお墓に埋められた骨が出た。それで警察に相談したら、刑務所から20人ほどの受刑者が来て石垣の修理をするということだった。心配なら家から一歩も出ないでくれと言われたけれど、お父さんと話し合って雨なら家で弁当を食べてもらうことにした」と教えてくれた。
雨でびしょびしょになった灰色の服を着た大きな体の人たちが、徽章のついた帽子をかぶり、雨合羽を付けた人たちに先導されて我が家の玄関から入ってきた。あっという間に家じゅう人だらけになった。母は一人ひとりにタオルを渡し、熱いお茶が入った薬缶を渡してお弁当を食べてもらっていた。
  その日の夕食のとき家族はその話題で盛り上がったけれど、誰一人として母のしたことを非難する言葉はなかった。普段の生活では考えられない危険で不安な出来事であった。しかし母は、人を分け隔てしなかった。その母の姿が今も心に残っている。淡々としてできることを精いっぱいした母の姿の中にキリスト者としてのあるべき姿があったような気がしている。それが今の自分を造ってくれたようにも思えるのである。

校長 山口道晴