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校長先生のお話

瞑 想
2014-09-04
 聖母被昇天祭(世間ではお盆と言いますし、または終戦記念日とも言われる8月15日)の前の4日間を笠岡にある島の一つ高島に4日間を過ごしました。ただの休暇ではありません。カトリックの司祭は、1年間に1度一週間の黙想が義務付けられています。一人で静かに過ごす時間をもって自分の心を見つめる時間です。
 
  去年は、わざわざミクロネシア連邦のポナペに関西空港からグアム経由で飛び一週間を過ごしました。赤道直下の素晴らしい自然とクーラーのない生活を通して何か心に響く、自然の何かを感じながら過ごした時であったと思います。風の音を聞いたり、ポナペの人たちのミサの中での歌や踊りや、満天の空の星に、もう長いこと亡くしたままになっていた故郷を感じたりもしました。帰って来てから、心がいつもよりクリアーになり、穏やかになっていることも、振り返れば大きな神様からのお恵みでした。
 
  今年の夏は、学校の諸事情が重なり、どうしても遠くに行くことが出来なくなりました。教会での黙想を考えましたが、どうも具合が悪いのです。予測出来ない電話。訪問者。さまざまなことが起こり心が出来事に流れていくのです。「忙しい」という漢字は心を亡くすという言葉です。心が流されたり、亡くしたりした心を取り戻すための黙想会なのです。それで教会ではなく高島のペンションを選びました。
 
  高島は、小さな島です。何百人かの島民が暮らしていると聞きましたが、過疎で高齢化が進み、漁業と民宿くらいであとは自動販売機以外にお店はないと最初に聞かされました。そしてじっさい散策してもなにもありませんでした。
 
  三日間全くの一人です。和室の8畳の畳の上の座布団を枕にして大の字に寝てみてなんとなくこんなものかなと妙に納得していました。本当にテレビと座卓以外何もない部屋でした。しばらく横になって目を閉じると、意外と大きな波の音が聞こえてきます。ザーッ、ザーッと言う繰り返す波の音、突然ザッ、ザッ、という短い波の音が聞こえてふと目を開け波の音について考え始めます。グレゴリオ聖歌は、波のリズムを参考にして作られたものであると、心のどこかで声が聞こえます。
 
  思いついて窓から外を眺めると、小さな島が目の前にあり、小島と高島の間が小さな海峡です。船が通過するまでは、規則正しく砂に打ち寄せる波の音がしますが、船が通ると途端に打ち寄せる波の音が変わるのです。白い鷺やカラスが波打ち際で何かを漁っている姿も見えます。しんとした時間の流れが感じられるような時がありました。
 
  心は、何も語らず、ただ穏やかに時間の流れを見つめています。また畳の上に大の字になり、静かに目を閉じ、じっと心を見つめています。たくさんの事柄が浮かんでは消え浮かんでは消えて行きます。一学期の学校での出来事が走馬灯のように浮かびます。
教会のことも浮かんでは消える事柄の一つです。
 
  時間が流れていくのを感じながら、いつの間にかウトウトとしている自分がありました。目を開けて赤いビロードのロザリオ入れから、深緑色のロザリオを取り出したとき韓国での旅を思い起こしました。身を起こして本当に穏やかな気持ちでロザリオを唱え始めた時、中学生たちが騒ぐ声が2階の廊下を伝って、部屋に響いてきました。
 
  不思議と心は乱されず、祈りに集中できた時間になっていったのは、聖霊のお恵みでしょうか。
 
  教会の祈りを唱えても、心がより深くその言葉を味わえるようになっているのはとても不思議でした。
 
  神の教えは完全で、魂を生き返らせ、
  そのさとしは変わらず、心に知恵をもたらす。
 
  神の定めは正しく、心の喜びであり、
  そのみ旨は清く、目を開く
  神の言葉は正しく、世々に及び、
  その裁きは真実、すべて正しい。
 
  一年間学校の教職員向けに語った「旧約聖書」の中で「神が人間に働きかけ、我々人間の思いを超えて働かれる、神の存在を知らしめる物語である」という言葉が心に浮かんでは消えていきました。
 
  「今までも、今も、これからも神が私たちの内に働かれ、私たちが気がつこうとつくまいと、振り返って見るとそこに神が働かれた痕跡が確かに見られる」という思いが浮かんできます。新約に生きる私たちは、キリスト・イエスに倣い、出会うためにもっともっと深く聖書を読む必要と親しむことが求められているのでしょう。
 
  そういう思いをしっかり心に止めながら、聖書の中で気になっていた箇所を考え、心を自由に遊ばせていた四日間でした。七月の終わりに取った四日間の黙想と合わせて八日間の黙想会にまた一年を過ごす力にしたいと思う夏休みでした。

校長 山口道晴
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